秀吉と秀長の活躍を4部に分けて解説します。第1部では、秀吉と長秀(秀長)の生い立ち、墨俣(すのまた)の一夜城、金ヶ崎の戦いについて解説します。第2部では、姉川の戦い、一乗谷城と小谷城の陥落、中国攻め(上月城の争奪戦)について解説します。第3部では、中国攻め(三木城の攻略)、中国攻め(高松城の水攻めなど)と本能寺の変、中国大返しと山崎の合戦について解説します。第4部では、賤ケ岳の戦い、小牧・長久手の戦い、秀吉と秀長の天下統一、豊臣政権の崩壊について解説します。
秀吉と秀長(長秀)の生い立ち
1537年、木下藤吉郎(羽柴秀吉)は尾張(おわり:現在の愛知県北西部)愛知郡中村(現在の名古屋市中村区)生まれました。15歳頃、秀吉は、百姓の仕事を嫌い、侍として出世したくて家を出ました。そして、放浪した後、今川家の家臣(松下家)のところに仕えましたが、長く続かず、逃げ出しました。18歳頃、秀吉は織田信長という若い武将が尾張で勢いがあることを聞きつけて仕えることにしました。若き秀吉は陽気な性格と才覚をあわせ持つ野心家でした。

秀吉は信長の下で出世を重ねて25歳頃には足軽百人組の頭になりました。一方、弟の小一郎(羽柴長秀)は3歳年下で1540年に生まれました。長秀は、兄の秀吉のような野心家ではなく、実直で穏やかな性格でした。そして、実家で母や姉妹とともに百姓の仕事を続けていました。1562年頃、秀吉は実家に一時的に帰ってきました。出世した秀吉は、自分の仕事を手伝ってくれる人材を求めていたため、気心の知れた長秀を誘い、自分と一緒に信長に仕えることを説得しました。
それは長秀が22歳の頃でした。それから、長秀は生涯を通して出世街道を突っ走る兄の秀吉を補佐して支え続けました。兄が出世のため表舞台で困難な仕事を引き受けてくるたびに、長秀は兄を助けて兄の成功を支えました。すなわち、兄が難しい仕事を派手にやり遂げていく一方で、長秀は、兄がその仕事を達成するうえで必要な裏方の仕事を引き受けました。そして、兄に従い、その真面目な性格で煩わしい地味な仕事も粘り強く行って兄を助けました。
墨俣(すのまた)の一夜城
墨俣の一夜城とは、織田信長の命令で木下秀吉が一晩で築いた砦のような城のことです。この城は信長が美濃(みの:現在の岐阜県南部)を攻略する拠点になりました。そして、秀吉の働きは、大いに認められてその後の立身出世の足掛かりになりました。しかし、一夜城の話は秀吉の立身出世を飾る作り話であったと言われています。そのため、この出来事はどこまでが真実か分かりませんが、秀吉と弟の木下長秀の活躍を語るうえで欠かせない物語とも言えます。そこで、一夜城における2人の活躍について解説します。
1560年、信長は、桶狭間の戦いで今川義元を討ち果たして、今川の勢力を後退させることに成功しました。1562年には、信長は松平元康(徳川家康)と清州同盟を結びました。これにより、信長は自ら治める尾張の東の脅威を除くことができました。そして、北の美濃の攻略を図りました。一方、美濃を治めていたのは斎藤龍興でした。その居城は難攻不落と言われた稲葉山城でした。1566年、信長は、その城を落とすため、美濃の墨俣に前線基地を設置することにしました。墨俣は交通の要衝で複数の川に囲まれた中洲のような場所でした。

信長はそこに60日で出城を築くことを重臣に命じました。最初に名乗りを上げたのは佐久間信盛でした。信盛は、数千の兵を引き連れて築城を始めましたが、築城の間、龍興軍の襲撃を防ぐことはできず、退却しました。そのため、築いていた出城は破壊されました。次に柴田勝家が引き受けましたが、同じように失敗しました。そこで、秀吉が名乗りを上げました。さすがに一晩で完成させるとは言いませんでしたが、失敗した重臣たちよりも少ない兵で、7日以内に完成させることを信長に申し出ました。
これを聞いた傍らに居並ぶ重臣たちは、成り上がりの新参者が大言壮語を吐いたと思って、苦り切った顔で秀吉を睨みつけました。しかし、秀吉は、仲間になっていた川並衆(尾張と美濃の境を流れる川沿いに勢力を持った私兵集団)の頭であった蜂須賀小六や前野長康らを説得して、密かに築城の準備を進めていました。すなわち、墨俣につながる川の上流で木材を伐採して、すぐに組み立てられるようにその木材を加工していました。
そして、加工した用材などを筏に組んでいつでも墨俣に流し入れることができるように準備していました。ここでは弟の長秀が活躍しました。この危険で困難な仕事をやり遂げるため、長秀は兄の秀吉とともに詳細な計画を練りました。信長の側で働く秀吉に代わり、上流の現場では長秀が計画を実行に移しました。現場で作業を行う川並衆や集められた地元民らに対して、長秀は、ただ指示を与えるだけでなく、時にはもてなしたり、褒美の話をしたり、金銭を与えたりして作業を促しました。

不平や不満を漏らすときには、誠意を持って粘り強く説得する役目も果たしました。そのようにして、長秀は、準備作業を進めるだけでなく、敵前での築城作業に向けて皆の覚悟を固めさせました。墨俣での築城に当たっては、敵の攻撃を防いで出城を築く敷地に敵が侵入するのを阻止する必要がありました。そのため、まず初めに馬防柵や障害物が周囲に設置されました。秀吉と長秀らは、そこで応戦しながら、築城作業を行っていた者たちを励ましたり、督促したりしました。そして、砦のような出城を3日という短い期間で完成させました。
このようにして、秀吉と長秀は、名だたる重臣たちが果たせなかった危険で困難な仕事を瞬く間に達成しました。この出来事が非常な驚きをもって表されるとき、「墨俣の一夜城」という伝説ができました。まさに秀吉の表舞台での活躍と長秀の舞台裏での活躍を象徴する出来事でした。秀吉は、この築城によって信長から褒美をもらい受けるとともに信頼も勝ち取ることができました。その後、信長はこの出城を拠点として美濃に攻め上りました。翌年の1567年には稲葉山城を攻め落としました。そして、信長はこの城の名称を岐阜城に改めました。

金ヶ崎の戦い
1568年、織田信長は、越前(えちぜん:現在の福井県)を治めていた朝倉義景のもとを去った足利義昭を擁して上洛(京都に入ること)しました。そこで室町幕府の第15将軍に就任した義昭の名で義景などの諸大名に上洛を求めました。しかし、義景はこれを無視しました。義景が治める越前は信長が征服した美濃の北西に位置する隣国でした。そのため、義景の態度は勢力の拡大を図る信長に越前を攻める口実を与えることになりました。
1570年、信長と家康の連合軍は、義景の居城であった一条谷城に向かう途中で、朝倉方の天筒山城を攻め落とし、次に金ヶ崎城を降伏させました。しかし、金ヶ崎城に入った信長のもとには、同盟を結んだ北近江(きたおうみ:現在の滋賀県北部)を治める浅井長政が裏切って背後から攻めてくるという知らせが入りました。ちなみに、長政は、同盟の証として、美女として名高い信長の妹のお市の方を妻に迎えていました。また、浅井家は朝倉家と懇意な関係にあったため、長政は信長が義景と戦わないことを同盟の条件としていました。


ここからの話は、後世の創作と言われているけど、よく映画やドラマで描かれる場面だよ!すなわち、お市の方は、城内で夫が兄への裏切りを決断したことを知ったんだ!そして、この裏切りが戦いのさなかにいる兄の命を危険に晒すことになると心配したんだよ!そこで、それを知らせるため、陣中見舞いとして、両端をひもで結んだ小豆の入った袋を信長に渡すよう気心の知れた侍女に託すんだ!これを受け取った信長は、自分が両側から挟まれて攻撃されることを悟り、「おのれ、長政、寝返ったな」と言って、即刻、撤退を決断したんだよ!

しかし、その条件が踏みにじられたため、長政は信長を裏切って攻めることにしました。信長は退路を断たれることを恐れて急ぎ少人数で京都まで逃げ延びました。一方、残された織田と徳川の連合軍は大軍でした。敵の追撃に受けて、大軍がバラバラに逃げては被害を拡大させることになります。被害を最小限に抑えて撤退するためには、整然と撤退する軍隊の最後尾で敵の追撃を食い止めて、先に退く軍隊のために時間を稼ぐ役目を果たす殿(しんがり)が必要になります。殿は、追撃を一手に引き受けるため、大きな犠牲を覚悟しなければなりません。
すなわち、殿が崩れれば、軍全体が総崩れになるため、信頼がおける精鋭部隊に殿を任せることになります。その殿の役目を任されたのが、池田勝正、明智光秀、木下秀吉でした。秀吉は自ら殿の役目を申し出たとも言われています。そして、秀吉隊では長秀が重要な役目を担いました。長秀は、この撤退戦で秀吉の指示に従い、義景軍が迫り来る中で配下の数百人とともに金ヶ崎城に籠りました。さらに、信長が留まっているかのように見せかけるため、信長の馬印などを掲げました。
追撃してきた義景軍は、信長が城に留まっていると考えて攻撃してきました。長秀らはそれに防戦して義景軍を食い止め、信長をはじめ、諸将の部隊が撤退するまで時間を稼ぐことに成功しました。つまり、長秀はここで武将としての働きを見事に果たしました。そして、長秀らは頃合いを見て城を脱出しました。撤退していく道順の途中には前もって薪と枯れ草を大量に積み上げて置きました。それで道を塞いで火をつけたため、追ってきた義景軍は、炎を上げて激しく燃える火の壁の前で足止めを食らいました。

その間に、長秀らは、城外で防戦に努めていた秀吉の本隊に追いつき、共に応戦しながら、後退していきました。秀吉隊は、途中で義景軍に追いつかれたため、厳しい状況に陥りましたが、家康軍の援護を受けてその危機を脱することができました。義景軍は、越前の国境を越えて深追いをすることはありませんでした。そのため、秀吉隊は、犠牲を出しながらも、京都にたどり着くことができました。また、先に撤退した諸将の部隊は無事に京都に戻っていました。信長は、殿の役目を見事に果たした秀吉の働きを褒めて、さらに信頼を置くようになりました。秀吉の見事な働きの陰には功労者の長秀がいました。







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