秀吉と秀長の活躍を4部に分けて解説します。第1部では、秀吉と長秀(秀長)の生い立ち、墨俣(すのまた)の一夜城、金ヶ崎の戦いについて解説します。第2部では、姉川の戦い、一乗谷城と小谷城の陥落、中国攻め(上月城の争奪戦)について解説します。第3部では、中国攻め(三木城の攻略)、中国攻め(高松城の水攻めなど)と本能寺の変、中国大返しと山崎の合戦について解説します。第4部では、賤ケ岳の戦い、小牧・長久手の戦い、秀吉と秀長の天下統一、豊臣政権の崩壊について解説します。
賤ケ岳の戦い
1582年、羽柴秀吉は山崎の合戦で逆賊の明智光秀を倒しました。その後、尾張(おわり:現在の愛知県北西部)の清須城で、羽柴秀吉、柴田勝家、丹羽長秀、池田恒興という4人の織田家重臣が織田信長の後継者と領地の配分を話し合いました。秀吉は、主君の敵討ちを見事に果たしたため、この会議(清須会議)では有利な立場にありました。そして、秀吉は、織田信忠の嫡男であった三法師(信長の孫)を後継者にして、織田信雄(信長の次男)をその後見人にすることで出席者の賛同を得ました。こうして、秀吉は織田家の筆頭家老のように振舞いました。
これに対して、勝家は織田家の筆頭家老として秀吉の勝手な振る舞いに憤慨しました。そして、秀吉との対立を深めていきました。1583年、織田家の重臣の滝川一益が、織田信孝(信長の三男)を推す勝家に味方して、伊勢(いせ:現在の三重県北中部、愛知県の一部、岐阜県の一部)の長島城から兵を挙げて秀吉方の諸城を攻略しました。秀吉と弟の羽柴長秀はこれらの諸城を奪還するために出陣しました。一方、勝家は、一益の求めに応じて越前(えちぜん:現在の福井県北部)の北ノ庄城から約3万の兵を率いて北近江(きたおうみ:現在の滋賀県北部)に進軍しました。

これに対して、秀吉と長秀は約5万の兵を率いて賤ケ岳の余呉湖近辺に布陣しました。両軍はそれぞれ砦を築いて南北に対峙しました。このような中、岐阜城の信孝が勝家の出陣を知って秀吉に対して兵を挙げました。そのため、秀吉は長秀に賤ケ岳の戦場を任せて美濃(みの:現在の岐阜県南部)に向かいました。そして、岐阜城近くの大垣城に入りました。これを知った勝家は、配下の佐久間盛政に秀吉が不在の軍に対して攻撃することを命じました。
盛政は羽柴方の部隊に攻撃を加えて敗退させました。そこに秀吉に味方した丹波長秀の軍が琵琶湖を渡って反撃してきたため、盛政隊は攻撃の矛先を変えました。また、長秀軍も柴田勢の攻撃に耐えていたとき、大垣城の秀吉のもとには勝家の攻撃が開始されたという知らせが入りました。秀吉は、大垣城に抑えの兵だけを残して、急遽、本隊を引き連れてその日のうちに賤ケ岳に戻りました。ちなみに、この素早い移動は「美濃の大返し(約52キロメートルをおよそ5時間で移動)」と言われています。

秀吉軍は、賤ケ岳に到着すると、盛政隊に対して攻撃を加えました。盛政隊は不在と思われた秀吉軍に不意を突かれて押し返されました。しかし、盛政隊は退きながらも善戦しました。そのため、秀吉軍は攻撃の矛先を柴田勝政(盛政の弟)の部隊に向けました。盛政は、弟の勝政を救援するため、盛り返して秀吉軍に猛攻を加えました。その結果、両軍による大激戦となりました。そのとき、勝家に味方して激戦の後方で布陣していた前田利家が、自らの軍を率いて突然戦場を離脱してしまいました。これを見た柴田勢の他の武将も撤退を開始しました。

賤ケ岳の戦いにおいては、秀吉軍と佐久間盛政・柴田勝政の軍との合戦が最も激しかったんだ!その激突の結果は秀吉軍が勝利したんだよ!そこでは、その勝利に特に貢献した若武者が7人いたんだ!そして、彼らの武功を称えて「賤ケ岳の七本槍」と呼んだそうだよ!その7人とは福島正則、加藤清正、片桐且元、脇坂安治、加藤嘉明、平野長泰、糟屋武則のことだよ。秀吉は、彼らの働きを褒めて、それぞれに千石以上を加増したんだ!

利家隊をはじめ諸部隊の撤退によって、勝家軍は戦意を喪失して押し返されました。そして、盛政隊と勝政隊も総崩れとなりました。勝家は、秀吉らの総攻撃を受けて支えきれず、北ノ庄城に向けて退却しました。秀吉らは、それを追撃していきながら、途中で居城の府中城に籠る利家を味方にしました。秀吉らは、利家隊を先鋒にして北ノ庄城に到着すると、全軍で城を包囲しました。そして、翌日には総攻撃を開始しました。勝家とその妻となっていたお市の方は自害して果てました。お市の方の3人の娘(兄の信長に滅ぼされた最初の夫、浅井長政の子)は城を出て秀吉に保護されました。
一方、秀吉に対して兵を挙げた岐阜城の信孝は、信雄らの軍に攻められて籠城していましたが、勝家の自害と北ノ庄城の落城を聞いて降伏しました。その後、信孝は自害させられました。勝家に先駆けて秀吉に対抗した一益も降伏しました。秀吉はこれらの勝利によって信長の後継者としての地位を確立しました。長秀は秀吉から播磨(はりま:現在の兵庫県南部)と但馬(たじま:現在の兵庫県北部)を与えられました。そして、姫路城を居城としました。その結果、多くの武将たちが秀吉になびいていきました。
小牧・長久手の戦い
信雄は織田家に代わって天下取りを図る秀吉に憤慨していました。そして、配下の秀吉派の家老数名を殺害しました。激怒した秀吉は信雄への出兵を決断しました。これに対して、信雄は、単独では対抗できず、徳川家康に助けを求めました。そして、家康も、秀吉が天下を狙っていることを面白く思っていませんでした。そのため、秀吉に対抗するうえでの大義名分として信雄の助けを受け入れました。1584年、秀吉派の池田恒興が犬山城を攻略しました。そして、そこに同じく秀吉派の森長可が合流しました。

それを知った徳川家康は3万の兵を率いて犬山城の南に位置した小牧山城に入りました。一方、長可は、家康を攻めるために小牧山城に向かいました。これに対して、家康配下の酒井忠次らが出陣しました。そして、長可隊との戦いになりました。その結果、長可隊が敗退しました。そのとき、秀吉が約10万の兵を率いて家康がいる小牧山城と犬山城の中間に位置した楽田城に布陣しました。そのため、家康は安易に城を出て攻撃を行うことを避けました。一方、秀吉は、小牧山城を力攻めすることによって自らの兵力が損耗することを嫌いました。

両軍は膠着状態になりました。そのよう中、秀吉軍が先に動きました。その背景には、紀伊(きい:現在の和歌山県と三重県南部)の北部を拠点としていた雑賀衆(さいかしゅう:鉄砲で武装した傭兵集団)や根来衆(ねごろしゅう:鉄砲で武装した僧兵集団)が、家康に味方して秀吉に対して兵を挙げたことがありました。すなわち、秀吉は、こちらからの攻撃にも対処する必要があったため、気が急いていました。恒興と長可は、家康の領地である三河(みかわ:現在の愛知県東部)の岡崎城を攻めて後方をかく乱することによって、家康を城からおびき出す作戦を献策しました。

秀吉はその作戦を受け入れました。そして、羽柴秀次(秀吉の甥)を総大将、恒興と長可を先鋒として岡崎城を攻撃することを命じました。これを察知した家康は配下の榊原康政らを引き連れて密かに秀次軍の後を追いました。追いついた家康軍は秀次軍を攻撃して敗退させました。さらに、家康軍は長久手の地で先鋒の恒興と長可の部隊と激突しました。この戦いにおいては家康が勝利して恒興と長可が討ち死にしました。一方、秀吉は家康が出陣したのを知って追撃に向かいました。
しかし、秀吉が戦場に到着したときには、戦いは終わっていました。そして、家康は小牧山城に戻りました。その後も、羽柴方と徳川方の小競り合いは続きました。そのような中、長秀は信雄の領国となった伊勢に侵攻して信雄をけん制しました。それから、長秀は拠点の諸城を攻略しました。信雄は、この状況に耐え切れず、伊勢や伊賀の領土を減らすことで秀吉と単独で和議を結んでしまいました。これによって、家康は、秀吉と戦う名目を失ったため、秀吉と和睦しました。
秀吉と秀長の天下統一
1584年、長秀は秀長に改名して羽柴秀長と名乗りました。1585年、秀吉と秀長は紀伊を攻略しました。秀長は、紀伊攻めの戦功によって紀伊・和泉(いずみ:現在の大阪府南西部)の64万石を与えられました。その後、秀長は総大将として四国攻めに向かいました。そして、四国でほぼ全土を掌握していた長宗我部元親を圧倒的な兵力で攻めて降伏させました。元親は土佐(とさ:現在の高知県)1国を安堵されました。秀長はこの戦功によって大和(やまと:現在の奈良県)を加増されました。秀長は紀伊、和泉、大和を治める100万石の大大名になりました。

さらに、秀長は居城を和歌山城から郡山城に移転しました。そして、秀吉は関白・太政大臣に任命されて「豊臣」の氏を賜りました。これにより、豊臣秀吉と豊臣秀長と名乗ることになりました。1586年、家康が大阪城において秀吉に臣従を誓いました。1587年、秀吉と秀長は九州攻めを行いました。秀吉は、一方の総大将として大軍を率いて肥後(ひご:現在の熊本県)方面を攻略しました。そして、秀長は、もう一方の総大将として大軍を率いて日向(ひゅうが:現在の宮崎県)方面に向かいました。そこで勢力を伸ばしていた島津義久を降伏させました。

その後、秀長は従二位権大納言に昇進しました。そして、秀長は大和大納言と称されました。このように、秀長は、秀吉の天下統一の事業を完成させるため、秀吉を常に補佐しました。また、秀長は、秀吉の天下が上手く治まるようにするため、秀吉の名代として諸大名の接待などを誠実にこなしました。1590年、秀吉は、諸大名を引き連れて北条氏直が籠城していた小田原城に出兵しました。そこでは、圧倒的な大兵力をもって城を包囲しました。そして、氏直を降伏させました。氏直は切腹したため、北条は滅亡しました。このとき、秀長は病気で参戦しませんでした。
豊臣政権の崩壊
1591年、秀長は51歳で亡くなりました。秀長を失った豊臣政権は秀吉の独断専行によって崩壊への道を歩むことになりました。秀吉は、日本で天下を治めた後、さらに領土を明(中国)まで広げることを計画しました。そして、1592年、秀吉は朝鮮出兵(文禄の役)を行いました。秀吉の遠征軍は漢城(ソウル)を占領して明との国境付近まで進みました。そして、明との戦いになりました。その結果、明軍は敗北しましたが、遠征軍の兵糧不足は深刻になりました。1593年、両国は講和交渉に入るため、戦いは休戦となりました。

1595年、秀吉は、側室の淀の方が産んだ拾(豊臣秀頼)を跡継ぎにすることを望んでいたため、関白の豊臣秀次(秀吉の甥で後継者)に謀反の疑いをかけて、切腹に追い込みました。さらに、秀次の妻子らを洛中引き回しのうえ斬首にしました。この暴挙によって諸大名は秀吉から距離を置くようになりました。1596年、明からの使者が秀吉のもとを訪れて明の返答を伝えました。しかし、それは、秀吉に降伏することを伝えるものではなく、明の皇帝が秀吉を日本国の王に任命するというものでした。
そのため、秀吉は激怒しました。そして、1597年、再び朝鮮出兵(慶長の役)を行いました。秀吉の遠征軍は速やかに朝鮮南部を攻略しました。しかし、一旦退いて南端付近に拠点となる城を築き始めました。すなわち、再攻撃のため、城を拠点として軍や兵糧を整えました。しかし、1598年、秀吉は62歳で亡くなりました。これにより、朝鮮に出兵している理由がなくなりました。遠征軍は朝鮮から撤収しました。しかし、豊臣恩顧の大名の間には朝鮮出兵における諸大名の働きを巡って深刻な対立が生じました。
そして、徳川家康は天下取りのためにその対立を利用しました。1600年、家康が率いる東軍と石田三成が率いる西軍が関が原で激突しました。この天下分け目の戦いでは、武断派の豊臣恩顧の大名が、三成憎しのため、家康に味方しました。結果は家康が勝利しました。これにより、豊臣の力が衰えるとともに、家康の天下取りが確実なものとなりました。さらに、家康は、1614年の大坂冬の陣と1615年の大坂夏の陣によって大阪城に籠城していた豊臣秀頼を自刃に追い込みました。そして、豊臣家は滅亡しました。







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