鉄血宰相【ビスマルク(三部作の一部)】についてわかりやすく解説!

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歴史・文化・自然

ビスマルクの生い立ち

1815年、ウィーン会議において、フランスの皇帝ナポレオンが結成したライン同盟に代わって、ドイツ連邦が成立しました。ドイツ連邦は、35の君主国と4つの自由都市の連合体でした。

同年、オットー・フォン・ビスマルクは、プロイセン王国(ドイツ北東部とポーランド西部の区域)のブランデンブルク州にあるシェーンハウゼン(ベルリン北西部にあるビスマルク家の土地)で誕生しました。父はフェルディナント・フォン・ビスマルク、母はヴィルヘルミーネ・ルイーゼ・メンケンで、両親の4番目の子供でした。

ビスマルク家は代々のユンカーでした。ユンカーとは、プロイセン王国の領域(ドイツのエルベ川以東の地域)で勢力を伸ばした地主貴族で、支配階級として高級官僚や将校の地位を占めていました。

1822年、教育熱心な母親は、6歳のビスマルクをプラーマン学校に入学させました。そこは、強制と規律を重んじるスパルタ教育が支配していたところでした。そのため、ビスマルクは、プラーマン学校で幼少期を台無しにされたと述懐しています。

ビスマルクの少年時代(wikipediaより引用)

ビスマルクは、プラーマン学校を卒業後、フリードリヒ・ヴィルヘルム・ギムナジウムやグラウエン修道院付属ギムナジウムで学びました。ギムナジウムとは、 日本の小学校高学年から高校3年までに相当する大学進学のための学校です。

それらの学校では、ビスマルクは、語学の才能に優れていたため、フランス語、英語、ラテン語の成績が優秀でした。その能力は、ビスマルクが外交官や政治家になった後には、文書や演説などで発揮されることになりました。

1832年、ビスマルクはゲッティンゲン大学に入学しましたが、1年くらいの後にはベルリン大学に入学しました。ビスマルクは、そこで法律と政治学を専攻しましたが、文学や歴史に関心を持っていました。

また、大学時代のビスマルクは、喧嘩と酒を好み、乱暴者のような態度で過ごしました。大学卒業後、ビスマルクは、公務員として勤めましたが、公務員の生活には馴染めず、恋愛や豪遊に明け暮れたため、借金がかさみました。

ビスマルク(wikipediaより引用)

そのため、1839年、ビスマルクは、公務員を辞めて、ビスマルク家の農地に戻りました。そして、ユンカーとしての農場管理の仕事を行いました。その後、借金も返済して、安定した生活に戻りました。

ビスマルクは、1847年にユンカー出身のヨハンナ・フォン・プットカマー

と結婚したよ!彼女は、信仰熱心で、夫を支える家庭婦人だったんだ!

常にビスマルクに味方して、夫と対立する者はたとえ皇帝であっても、

相手を悪く言ったそうだよ!

ビスマルクは、「妻が不敬罪を償うためには一生監獄に入っても足りないな」

と言ったそうだよ!

ビスマルクのプロイセン宰相就任

フランスでは、1830年の七月革命によって立憲君主制(オルレアン家のルイ=フィリップ国王)が樹立されましたが、1848年には、二月革命が勃発してこの七月王制は倒され、第二共和政が成立しました。

これに触発されて、オーストリアのウィーンやプロイセンのベルリンでは三月革命が起こりました。プロイセン国王は、暴動の拡大を恐れて、ドイツの統一や憲法の制定を協議するため、フランクフルト国民議会を開催することを約束しました。

国民議会では、ドイツの統一について、オーストリアを中心とする大ドイツ主義とオーストリアを除いてプロイセンを中心とする小ドイツ主義が対立しましたが、小ドイツ主義が優勢となりました。

プロイセン王国エンブレム

しかし、ドイツ帝国の皇帝に選出されたプロイセン国王が、国民議会で採択されたドイツ帝国憲法を拒否したため、1849年に国民議会は解散されました。

一方、ビスマルクは、1847年に32歳でプロイセン議会の議員になると、王制を擁護するために自由主義者と激しく対立しました。そして、1848年のベルリン三月革命では、反革命派として活動しました。

1851年~1859年の間、ビスマルクは、ドイツ連邦議会にプロイセン代表として派遣されました。そこで、ビスマルクは、連邦議会を牛耳るオーストリア代表に激しく反発しました。また、ビスマルクは、ドイツ連邦の仕組みが、プロイセンを封じ込めてドイツの統一を阻んでいることを知って、強く憤りました。

1859年~1862年の間、ビスマルクはプロイセン大使としてロシアに赴任しました。そして、1862年、ビスマルクは、フランスにも赴任して、外交経験を積んでいきました。

一方、1861年、プロイセン国王にヴィルヘルム1世が即位しました。ヴィルヘルム1世は、陸軍強化のための軍制改革をめぐり、進歩党(自由主義左派と急進民主主義者とが結成した政党)が占める議会(下院)と対立しました。

1862年のビスマルク(wikipediaより引用)

そして、1862年、ヴィルヘルム1世は、ユンカー出身の王制擁護派で、軍備増強を主張するビスマルクを宰相に任命しました。このとき、ビスマルクは47歳でした。しかし、議会は、軍制改革のための予算案を否決しました。

そこで、宰相に就任したビスマルクは、次のような有名な演説を行いました。「現在の大問題は、言論や多数決ではなく、鉄と血によってのみ解決される。」すなわち、鉄とは武器のことであり、血とは兵士のことでした。そのときから、ビスマルクは鉄血宰相と呼ばれました。

ビスマルクは、議会が軍制改革のための予算案を否決したにもかかわらず、政府が国策を実行するのは義務であると主張して、軍備増強のための軍制改革を強行しました。議会は、政府の行為を憲法違反と主張したため、憲法の解釈をめぐって「プロイセン憲法紛争」と呼ばれる対立が起こりました。

すなわち、ビスマルクは、憲法には、予算が成立しなかった場合について規定がないこと、そして、政府としては、執行権を行使して国策を実行する責任があることを主張して、軍制改革を強行しました。

このように、ビスマルクは、軍制改革を強行したことを正当化するため、憲法の「隙間論」と呼ばれる論拠を主張しました。実際のところ、政府は、歳入を確保していたため、予算案が否決されても、軍制改革の実行に差し障りはありませんでした。





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