無敵の帝王【アレキサンダー大王】の【イッソスの戦い】をわかりやすく解説!

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歴史・文化・自然

アレキサンダー(アレクサンドロス)大王

紀元前334年、アレキサンダー大王は22歳の時に東方遠征を開始しました。そして、10年余りの短期間で、ギリシアからエジプトやインドに至る大帝国を築きました。しかし、32歳の若さで逝去してしまいました。その結果、大王の築いた大帝国も分裂していきました。

大王は、マケドニア王フィリッポス2世の子として紀元前356年に誕生しました。大王が13歳のときには、古代ギリシアの著名な哲学者であるアリストテレスが、家庭教師として招かれ、3年の間、大王の教育を担当しました。

前336年、父王が暗殺され、大王はアレキサンダー3世としてマケドニア王を継承しました。その後、大王は、父王が結成したコリントス同盟(スパルタを除くギリシアの都市国家間の同盟)を固めるため、出兵し、ギリシアでの覇権を確立しました。

そして、紀元前334年、父王の意思を継いで、大王は東方への遠征を開始しました。当時、マケドニアの東方では、ペルシア帝国が、エジプトを含めてインダス川に至る広大な地域を支配していました。

大王は、このペルシア帝国を滅ぼして、アレキサンダー大王の大帝国を築きました。しかし、紀元前323年、大王は、西方に移動中のバビロン(イラクの首都バグダッド南方にあった古代都市)において病死したと言われています。

大王の東方遠征において、大帝国を築く道筋を決定づけた戦いがありました。それは、紀元前333年に、イッソス(トルコの都市イスケンデルンの北側付近)で、ペルシア帝国の王ダレイオス3世が率いる大軍との間で行われた戦いでした。

ペルシア帝国の王ダレイオス3世

イッソスに向かう両軍

大王の軍は、グラニコス川(トルコの都市ブルサの西方にあるビガ川)の戦いでペルシア軍に勝利した後、ゴルディオン(トルコの首都アンカラの南西にあった古代都市)に到達しました。

その後、南下して地中海に接するタルソス(トルコの都市タルスス)に至りました。そこから、さらに南下してイッソスを通過しましたが、背後では、ダレイオス3世のペルシア軍が迫ってきました。

一方、ダレイオス3世のペルシア軍は、バビロンを出発して、大王の軍が進軍している地中海沿岸に向けて北上しました。その後、ペルシア軍は、大王の背後を追うように南下して、イッソスに向けて進軍しました。

大王は、ペルシア軍が背後に迫っていることを知ると、ただちに反転して、北上しました。そして、イッソス湾に流れ込むピナロス川を挟んで、北岸のペルシア軍と南岸の大王の軍が、川に沿って対峙しました。

イッソスの戦い(陣形)

大王の兵力は、約4万人で、その構成は騎兵と歩兵です。ダレイオス3世が率いるペルシア軍の兵力は、約10万人で、その構成は騎兵と歩兵ですが、多くのギリシアの傭兵が含まれていました。

両軍の歩兵は、ファランクスと呼ばれる密集隊形を組む重装歩兵です。すなわち、重装歩兵は、鎧兜に身を包み、片手に盾を持って、横一列の密集隊形を組み、盾の壁をつくり、もう片方の手に槍を持って、それを突きだして、敵の部隊に向かって前進します。

川を挟んで対峙した両軍は、中央に重装歩兵部隊を配置して、騎兵部隊を左右の両端に配置しました。そして、大王の軍の兵数が約4万であったのに対し、ペルシア軍の兵数は2.5倍の約10万の大軍でしたから、ペルシア軍は、大王の軍よりも縦に厚みのある隊列を組むことができました。

この場合、例えば、横数列と横何十列の歩兵や騎兵が正面から激突すれば、列に厚みのある方が有利であることは間違いありません。一方で、兵数において2倍以上の差がある場合には、兵数の多い方が、横に長く隊形を組み、左右の両翼を張り出して、少ない方を包み込むように配置する陣形を組みます。

この陣形を鶴翼の陣と呼びます。すなわち、鶴が両翼を左右に広げる形をイメージしています。この陣形によって、兵数の少ない方は、正面からだけでなく、両脇からも攻撃を受け、最終的には、敵に背後を取られ、包囲されて殲滅されることになります。

しかし、イッソスの戦場は地形が狭いため、ペルシア軍がこの戦法をとることを阻みました。すなわち、両軍は、イッソス湾に流れ込むピナロス川を挟んで対峙しましたが、その場所は、片側はピナロス川が流れ込む海で、もう一方の片側は、川の上流にあたり、岩肌が見えるような山際という地形でした。

そして、その間の狭い空間が戦場になりました。ペルシア軍は、山側が騎兵の進軍に適さないと判断して、海側に多くの騎兵を集中させました。そのため、山側は手薄になりました。

一方、大王の軍は、ペルシア軍が手薄となった山側に、大王自らが率いる騎兵部隊を配置しました。しかし、兵数は10万に対する4万でしたから、大王の軍が圧倒的に不利であったことは変わりませんでした。

イッソスの戦い(中央の重装歩兵部隊)

両軍の戦いが始まりました。ペルシア軍を率いるダレイオス3世は、横に長い隊形の中で、中央において指揮をとりました。中央の戦場では、厚く配置されたペルシア軍の重装歩兵部隊と兵数の少ない大王の重装歩兵部隊が激突しました。

重装歩兵部隊同士の戦いでは、兵士の数で勝っていたペルシア軍の猛攻に対して、大王の軍は、後退を余儀なくされました。しかし、大王の軍は、隊形を崩さず、ペルシア軍によって突破されることを耐え忍びました。

そして、大王側の重装歩兵部隊は、騎兵部隊が、ペルシア軍に突入して、側面から攻撃するまで踏ん張って、時間を稼ぎました。イッソスの戦いにおいて、中央に配置された重装歩兵部隊の役割は極めて重要でした。

もし中央の重装歩兵部隊が崩れれば、大王が率いる騎兵部隊は、敵軍に突入したとしても、孤立して、ペルシア軍に包囲されることになります。その結果、大王は、戦死するか、捕虜になり、騎兵部隊は壊滅することになります。

この過酷な任務を全うした重装歩兵部隊の指揮官は、大王が厚い信頼を寄せたパルメニオン将軍でした。パルメニオン将軍は、大王の父フィリッポス2世の時代における数々の戦いで、軍隊を指揮して勝利をおさめた歴戦の武将でした。大王の東方遠征では、大王に次ぐ副司令官として重きをなしました。

イッソスの戦い(海側の騎兵部隊)

海側の戦場でも、兵数で勝るペルシア軍の騎兵部隊が、大王の騎兵部隊を大きく後退させましたが、崩して突破することはできませんでした。その結果、ペルシア軍の騎兵部隊による側面攻撃を避けることができました。

ペルシア軍の騎兵部隊が突破できなかった背景には、先ほど説明した地形が大王の軍に味方しました。すなわち、ペルシア軍は、海側に多くの騎兵を配置しましたが、片側が海であるため、騎兵部隊は横に長く隊形を組むことはできませんでした。

そのため、ペルシア軍は、縦に厚く騎兵部隊を配置することになりました。この配置では、すべての騎兵が一斉に攻撃に参加することはできず、限られた数の騎兵が、順次攻撃に参加することになりました。つまり、ペルシア軍は、兵数の有利を生かすことができませんでした。

イッソスの戦い(大王が率いる騎兵部隊)

一方、山側のペルシア軍は、比較的少ない兵数が配置されたために、弱点となってしまいました。大王に率いられた騎兵部隊は、ペルシア軍の騎兵部隊を蹴散らして、ペルシア軍の中へ突入しました。

この時、大王が率いた騎兵部隊は、鎧兜に身を包んだ重装騎兵で、選抜された貴族の子弟によって編成されたエリート集団でした。この騎兵部隊は、ヘタイロイと呼ばれ、大王が、大帝国を築き上げるうえで、戦いに勝利を重ねていく立役者となりました。

大王が率いる騎兵部隊は、南からピナロス川を渡って北上しました。この場合、ペルシア軍に突入した大王の騎兵部隊は、その機動力を生かして、速やかにペルシア軍の側面や背後に回って、攻撃を加えることになります。

その結果、前面の重装歩兵部隊(大王の軍)と戦っていたペルシア軍は、騎兵によって側面や背後からも攻撃を受けることになり、支えきれず、総崩れとなります。イッソスの戦いでは、大王の騎兵部隊は、北上した後に左に方向を変えて、ペルシア軍の側面から、中央に位置するダレイオス3世に向かって、まっしぐらに突き進みました。

ダレイオス3世は、大王が騎兵部隊を率いて迫ってくるのを知ったとき、戦場から逃げ出しました。その結果、ペルシア軍は、総崩れになって敗退しました。その時、ダレイオス3世は、戦場に連れてきた母親、妻、娘を置き去りにして、逃走したそうです。大王は、捕虜にして丁重に扱ったと言われています。

大王の軍が勝利した要因には、大王が率いる重装騎兵部隊が、迅速に敵陣を突破したこと、大王の軍隊の中核をなしていた重装歩兵部隊が、ペルシア軍の猛攻を耐え忍んだことなどが挙げられます。しかし、その最大の要因は、大王が戦場となったイッソスの地形を上手く利用したことにありました。

すなわち、ペルシア軍は、大王が率いる軍隊の2.5倍の兵数を有しながら、狭い戦場では、その利点を十分に生かすことができませんでした。一方、大王の軍は、機先を制して、地形上、ペルシア軍が手薄にした戦線を突破することに成功しました。


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