【豊臣秀吉と弟・秀長(長秀)】の活躍についてわかりやすく解説(第ニ部)!

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長浜城歴史博物館

秀吉と秀長の活躍を4部に分けて解説します。第1部では、秀吉と長秀(秀長)の生い立ち、墨俣(すのまた)の一夜城、金ヶ崎の戦いについて解説します。第2部では、姉川の戦い、一乗谷城と小谷城の陥落、中国攻め(上月城の争奪戦)について解説します。第3部では、中国攻め(三木城の攻略)、中国攻め(高松城の水攻めなど)と本能寺の変、中国大返しと山崎の合戦について解説します。第4部では、賤ケ岳の戦い、小牧・長久手の戦い、秀吉と秀長の天下統一、豊臣政権の崩壊について解説します。

姉川の戦い

織田信長は妹の市を浅井長政に妻として差し出して同盟を結びました。それにもかかわらず、長政が裏切ったため、信長は1570年の金ヶ崎の戦いで惨めな敗北を喫しました。そのため、信長は長政に対して激しい憎悪の念を抱きました。そして、数か月後、信長は、屈辱を晴らすため、家康と連合して長政の居城である小谷城に向けて北上しました。信長は、長政を城から誘い出すため、途中で浅井方の横山城を攻めました。

朝倉義景(左)と浅井長政(右)

これに対し、長政は、横山城を見殺しにしては士気にかかわると考えて、朝倉義景の援軍(総大将は義景の名代として一門の朝倉景健)とともに小谷城を出陣して南下しました。信長と家康の連合軍は約2万5千の兵力でした。これには木下秀吉隊の一角を担う木下長秀の部隊も含まれていました。これに対する長政と景健の連合軍は約1万3千の兵力でした。両軍は姉川を挟んで対峙しました。やがて、戦いの火ぶたが切って落とされました。当初は、長政らの軍がその猛攻によって信長らの軍を押していました。

しかし、家康配下の榊原康政隊が景健軍の側面を攻撃したため、景健軍は、耐えきれず、崩れ出しました。さらに、浅井方の横山城を包囲していた織田方の部隊が姉川の戦場に駆け付けました。そのため、兵力で勝る信長と家康の連合軍は反撃を開始しました。その結果、長政と景健の連合軍は崩れて敗走しました。長政はこの敗戦で小谷城の南方に位置する重要な拠点(横山城)を信長に奪われてしまいました。そして、城代としてこの城を任されたのは秀吉でした。また、この時期、秀吉と長秀は、軍師として高名な竹中半兵衛(重治)を信長の家臣として招くための説得工作を行っていました。

滋賀県長浜市姉川の古戦場

特に長秀が熱心に説得したと言われています。その結果、半兵衛は信長ではなく秀吉と長秀のもとで働くことを条件に説得に応じました。姉川の戦いからおよそ3年の間、信長と長政・義景との戦いは続きました。この間、秀吉と長秀は、半兵衛の助けを得て、横山城を守るとともに、将来の小谷城攻めのために様々な活動を行っていました。たとえば、1571年、長秀は半兵衛と共に浅井方の宮部継潤を説得して味方に引き入れました。継潤は、小谷城と横山城の中間に位置した宮部城の城主であったため、この寝返りは小谷城への圧力をさらに高めました。

一乗谷城と小谷城の陥落

1573年、木下秀吉らは、浅井方の阿閉貞征(あつじさだゆき)を味方に引き入れました。貞征は小谷城の西に位置した山本山城の城主でした。これにより、小谷城を攻撃するための機が熟したと考えた織田信長は、約3万の大軍を率いて小谷城に向けて進軍しました。この信長軍には秀吉隊の副将格として木下長秀も参戦していました。これに対して、小谷城の浅井長政は、約5千の兵とともに籠城して戦うことにしました。そして、朝倉義景は約2万の兵を率いて長政の援軍に向かいました。

義景は、信長軍が小谷城を包囲した場合、城と城外から挟み撃ちにするため、後詰して城外に砦を築きました。しかし、義景軍は兵力で劣るだけでなく戦意も低下していました。そのため、重要な砦が信長軍によって攻め落とされると、義景は撤退を決断しました。信長は退却する義景軍を猛追して近江と越前の国境に位置した刀根坂で追いつきました。刀根坂の戦いでは、信長軍は退却で浮足立っていた義景軍を激しく攻め立てました。その結果、多くの兵士とともに義景軍の主だった武将たちも討ち死にしました。そして、義景は一乗谷城に向けて敗走しました。

一乗谷城跡

義景は、一乗谷城に逃げ帰りましたが、重臣の朝倉景鏡の進言によって一乗谷城を放棄して六坊賢松寺に逃れました。しかし、その景鏡の裏切りによって義景は自害して果てました。信長は、義景の死によって朝倉攻めを終えると、北近江の小谷城を攻めるため、越前から軍を返しました。一方、小谷城に籠る兵士の間では、援軍も期待できず、多勢に無勢では、敗北して滅亡することは明らかと考える者が増えました。そして、信長軍に包囲される前から寝返る家臣も増えていきました。小谷城の本丸では長政が陣頭指揮をとりました。

本丸とは、城の中心となる城主の居住区域で、堀や石垣に囲まれた高層の建物のことです。戦のときには最後の砦となります。その背後に位置していた小丸(長政の父浅井久政の隠居所)では久政が指揮をとっていました。そして、両者はうまく連携して信長軍の攻撃から城を守っていました。そのため、信長軍は城に攻め込むことがなかなかできませんでした。そこで活躍したのが秀吉と長秀の兄弟と軍師の竹中半兵衛でした。すなわち、本丸と小丸の間には京極丸がありました。そこは本丸と小丸の連携を中継する拠点になっていました。

長政と久政の連携を分断するには、ここを攻め落とす必要がありました。秀吉らはこの京極丸に籠る長政の家臣らに対して寝返ることを約束させました。そして、秀吉隊は、京極丸に奇襲攻撃を行うとともに、その内応者の協力を得て占領に成功しました。秀吉らは、狼煙を上げて信長に京極丸を占領したことを知らせました。それから、分断されて孤立した小丸に籠る久政を攻めました。久政は耐えきれず、自害して果てました。一方、知らせを受けた信長は、本丸の長政に対して総攻撃をかけました。

小谷城跡からの景色

長政は、奮戦して最後の抵抗を試みましたが、やがて敗北を悟って自害して果てました。これにより小谷城は落城しました。なお、長政の妻となっていたお市の方はその三人の姫たちと共に信長のもとに戻されました。秀吉らの働きによって、お市の方らを無事信長のもとに届けることができたと言われています。信長は、これまでの秀吉の働きを褒め、この戦いで敗れた長政の小谷城を秀吉に与えました。この時期、秀吉は、信長の重臣であった丹羽長秀と柴田勝家の名字から一字ずつもらって羽柴秀吉と改名しました。

そして、秀吉は、北近江三郡(坂田郡、浅井郡、伊香郡)の12万石を治める城持ち大名に出世しました。一方、長秀は秀吉から三郡のうち伊香郡の統治を任されました。さらに、長秀は、多忙な秀吉に代わって、北近江三郡の領地や領民を治めるため、様々な実務を行うとともに、新たな城(長浜城)を普請するため、その段取りなども担当しました。また、1574年、越前一向一揆に備えていた秀吉に代わり、伊勢長島一向一揆を鎮圧するため、長秀が部隊を率いて信長軍に加わりました。1575年、秀吉は完成した長浜城の城主となりました。

中国攻め(上月城の争奪戦)

1576年、信長は、毛利輝元(毛利元就の孫)の勢力圏となっていた中国地方の攻略を秀吉に命じました。1577年、秀吉は竹中半兵衛を伴い播磨(はりま:現在の兵庫県南部)に進軍しました。すでに信長に味方していた小寺孝高(黒田官兵衛)は、居城としていた姫路城を秀吉に明け渡して中国攻めの拠点とするよう進言しました。秀吉は姫路城に入りました。そして、姫路城周辺までの毛利方の城も難なく味方とすることができました。しかし、西には帰服に応じない上月城がありました。

姫路城

上月城は、播磨、備前(びぜん:現在の岡山県南東部)、美作(みまさか:現在の岡山県北東部)という3国が接する国境に位置していたため、輝元にとっては播磨に進出するうえで戦略上重要な城でした。一方、長秀は秀吉から但馬(たじま:現在の兵庫県北部)の攻略と生野銀山の確保を任されました。長秀は約3千の兵を率いて但馬に攻め込みました。先に山口岩洲城を落としました。次に太田垣輝延の居城であった竹田城に攻めかかりました。

竹田城跡

この城は山頂に築かれていたため、攻略は容易ではありませんでした。激しい戦いが数日間続きましたが、ついに城は落城しました。長秀はこの働きによって竹田城の城代を任されて但馬の2郡を統治しました。その間、秀吉は、黒田官兵衛や尼子勝久とともに、上月城を陥落させるため、約1万5千の兵を率いて進軍しました。秀吉は、上月城に隣接する福原城を先に落としてから、上月城を包囲して井戸を奪いました。そして、城の水を断ちました。一方、毛利方の宇喜多直家は弟の宇喜多広維を大将として援軍を送りました。

これに対して、兵力で勝る秀吉軍は、この宇喜多軍を猛攻撃して戦果を挙げながら、備前との国境付近まで追い払いました。上月城の城主であった赤松政範は、援軍もなく水も断たれたため、秀吉に降伏を申し出ましたが、許されませんでした。秀吉は総攻撃をかけました。激戦の後、政範らは自害して果てたため、上月城は落城しました。秀吉は、見せしめのため、城に籠っていた兵士の首をはねました。さらに、女子供を引きずり出して、美作と備前の国境で子供を串刺にしたり、女を磔にしたりしました。

上月城には代わって尼子勝久が入りました。しかし、1578年、再び攻めてきた直家軍が上月城を奪いました。そして、家臣の上月景貞を上月城に入れて守らせました。そのとき、勝久は撤退しましたが、秀吉が奪還したため、再び勝久が上月城に入りました。同じ頃、三木城の城主の別所長治が織田方から毛利方に寝返りました。長治は東播磨で最大の勢力を持つ武将であったため、その地域の豪族たちも長治にならって毛利方に寝返りました。一方、上月城を奪われた直家は輝元に助けを求めました。

輝元は、吉川元春(元就の次男)と小早川隆景(元就の三男)が率いた毛利軍を山陰と山陽の両道から上月城に向かわせました。そして、毛利軍は、3万を超える大軍で到着すると、上月城を包囲しました。これに対して、上月城に籠る尼子勝久の軍は数千の兵力でしたが、毛利軍は、城に直接攻めかかることはせず、柵や堀を築いて城を閉じ込めました。これによって、毛利軍は兵糧攻めを行いました。これを知った秀吉と長秀兄弟は、約1万の兵を率いて、寝返った長治の三木城を攻めるより先に上月城に籠る尼子勝久の救援に向かいました。

到着した秀吉らは、上月城の東に対峙する高倉山に布陣しましたが、兵力で劣ることから信長に援軍を求めました。しかし、信長は、上月城を救援するための援軍は送らず、先に三木城を攻略することを命じました。秀吉は信長に再考を願いましたが、信長の意思は固く聞き入れられませんでした。そのため、秀吉らは陣を払って三木城の攻略に向かいました。勝久は、見捨てられて孤立しましたが、籠城して徹底抗戦しました。やがて、勝久は力尽きて降伏したため、上月城は落城しました。そして、勝久は自害しました。

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