【豊臣秀吉と弟・秀長(長秀)】の活躍についてわかりやすく解説(第三部)!

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歴史・文化・自然
羽柴秀吉

秀吉と秀長の活躍を4部に分けて解説します。第1部では、秀吉と長秀(秀長)の生い立ち、墨俣(すのまた)の一夜城、金ヶ崎の戦いについて解説します。第2部では、姉川の戦い、一乗谷城と小谷城の陥落、中国攻め(上月城の争奪戦)について解説します。第3部では、中国攻め(三木城の攻略)、中国攻め(高松城の水攻めなど)と本能寺の変、中国大返しと山崎の合戦について解説します。第4部では、賤ケ岳の戦い、小牧・長久手の戦い、秀吉と秀長の天下統一、豊臣政権の崩壊について解説します。

中国攻め(三木城の攻略)

1578年、三木城の別所長治は毛利輝元の誘いによって寝返りました。その地域では同調する者が長治のもとに多数集まりました。そのため、長治は多くの兵糧を確保するための補給路を設けました。すなわち、毛利方が兵糧を海上輸送しました。長治はそれを陸揚げして三木城まで陸上輸送する補給路を確保しました。これによって、継続的な補給が可能になりました。そして、その補給路を確保するうえで、三木城の支城が重要な働きをしました。このようにして、長治は長期の籠城戦に向けた準備を整えました。同年3月、羽柴秀吉と長秀は三木城攻略に向かいました。

兵糧(米俵)

しかし、三木城は天然の要害の地に築かれていたため、これを直接攻め落とすことは困難な状況でした。そこで、秀吉は軍師の竹中半兵衛が献策した兵糧攻めを行うこととしました。それは三木城への補給を支えている各支城を攻め落として補給路を断つ作戦でした。しかし、三木城を兵糧攻めするには兵力が不十分だったため、秀吉らは織田信長に援軍を求めました。同年5月、信長は嫡男の織田信忠に三木城の攻略を命じました。信忠は約2万の兵を率いて出陣しました。さらに、丹波長秀、滝川一益、明智光秀らも援軍として三木城攻略に向かいました。

これらの軍によって各支城は落とされていきました。そして、織田軍は三木城を包囲しました。すなわち、要所要所に付城を築くとともに、付城の間には堀、柵、土塁などを設置して三木城を完全に取り囲みました。そのため、長治は兵糧を搬入することが難しくなりました。そのような中、同年10月、信長の配下で摂津(現在の大阪府北西部と兵庫県東部)を治めていた荒木村重が謀反を起こしました。毛利方に寝返ることが目的でした。そして、その居城の有岡城は摂津方面から三木城に補給を行ううえで適切な位置にありました。

荒木村重の謀反にまつわるドラマチックな話があるんだ!それは次のとおりだよ!秀吉の軍師となる黒田官兵衛は、信長の許しを得て、村重の翻意を促すため、有岡城に入るんだ!でも、村重の計略にはまり、捕らえられて地下牢に幽閉されてしまうんだよ!信長は、官兵衛がいつまで経っても戻ってこないので、怪しみ、「さては寝返ったな」と言って激怒するんだ! そして、秀吉に人質として預かっていた官兵衛の嫡男(松寿丸)を殺すように命ずるんだよ!官兵衛を信じていた秀吉は困り果てて竹中半兵衛に相談すると、半兵衛は秀吉に「私が人質をかくまうので、信長様には殺したと報告してください」と答えるんだ!その後、有岡城が落城して官兵衛は助け出されたんだよ!そして、信長に帰還したことを報告すると、信長は気まずい顔して「許せ、官兵衛、人質の・・・」と言い始めたところで、秀吉が松寿丸をつれてきて「ここに預かっております」と信長に伝えるんだ!信長の前で黒田親子は抱き合って無事を喜び、それを見た信長は、その口癖であった「であるか」と言って、秀吉の命令違反を問題にしなかったんだよ!

村重は有岡城に籠城して抵抗しました。この籠城は1579年9月まで続きましたが、毛利方の援軍もなく、村重は、織田軍の攻撃に耐え切れず、最後は1人で城から逃げ出しました。そして、有岡城は落城しました。一方、三木城の周辺では、包囲はさらに厳重になり、補給路を断つ作戦が続けられました。その結果、城内では時が経つにつれて兵糧不足が深刻になっていきました。この兵糧攻めの中、1579年6月、秀吉軍の陣中では体調を崩していた半兵衛が病死しました。半兵衛は軍師として秀吉と長秀兄弟の快進撃をこれまで支えてきました。

そのため、2人の落胆は非常に大きなものでした。また、宇喜多直家は、毛利方として上月城の奪還にこれまで関与してきましたが、寝返って織田方につきました。これは半兵衛が生前に行っていた説得工作が功を奏したものでした。直家は、備前(びぜん:現在の岡山県南東部)と美作(みまさか:現在の岡山県北東部)の東側で勢力を持っていた大名でした。そのため、直家の寝返りは、三木城の孤立を深めるとともに、秀吉と長秀兄弟の中国攻めにとって大きなはずみとなりました。

その後、三木城では、兵糧が完全に底をついたため、餓死者が多く出ていました。1580年1月には、織田軍による三木城に対する攻撃が開始されました。徐々に城内を攻略していく中で長治は切腹して果てました。これにより、「三木の干殺し」と言われた戦いは終結して、三木城は落城しました。この三木城攻めの間、長秀は攻略した但馬を離れていたため、反信長勢力が盛り返していました。そのため、1580年4月、長秀は総大将として再び但馬(たじま:現在の兵庫県北部)の攻略に向かいました。

そして、長秀は竹田城を拠点にして反対勢力を鎮めました。次に有子山城を居城としていた山名佑豊を攻めて降伏させました。これにより、長秀は但馬における毛利方の勢力を一掃しました。長秀はこの働きによって但馬と播磨で10万5千石を与えられました。長秀も兄秀吉のように大名に出世しました。ちなみに、長秀の家臣として活躍した武将には若き日の藤堂高虎がいました。高虎は、豊臣から徳川へと渡り、伊勢(現在の三重県の大半)津藩32万国の大名に上り詰めました。

中国攻め(高松城の水攻めなど)と本能寺の変

1580年、秀吉は、三木城が落城した後、播磨(はりま:現在の兵庫県南部)のほぼ中央に位置する姫路城に入りました。そして、因幡(いなば:現在の鳥取県東部)の鳥取城を攻めるため、秀吉は姫路城から出陣しました。これに合わせて、長秀も但馬から兵を率いて因幡に進軍しました。秀吉と長秀の軍は山名豊国が居城としている鳥取城を包囲しました。豊国は、籠城して対抗しましたが、やがて降伏しました。しかし、降伏に反対した家臣らが鳥取城から豊国を追放してしまいました。

1581年、毛利方に寝返った鳥取城は吉川経家を迎い入れて籠城しました。そのため、秀吉と長秀は再度鳥取城に向かいました。そして、秀吉らは到着すると再び鳥取城を包囲して兵糧攻めを行いました。城内では、補給路を断たれたため、時が経つと、多くの餓死者が出る凄惨な状況になりました。経家らの籠城は4か月近くに及びましたが、やがて経家は開城を決意して自刃しました。鳥取城を攻略した秀吉らは淡路島に渡って水軍を率いていた安宅信康を攻めました。安宅信康は洲本城を開城して降伏したため、淡路は秀吉の支配下に入りました。

1582年、秀吉と長秀は約2万の兵を率いて備前(びぜん:現在の岡山県南東部)に進軍しました。備前の石山城で宇喜多忠家(直家の弟)が率いる約1万の兵と合流しました。総勢約3万の兵力となった秀吉らの軍は、備中(びっちゅう:岡山県西部)に侵攻して毛利方の城を落としながら、清水宗治の居城であった高松城を包囲しました。しかし、高松城は泥の深い田に囲まれた要害の地に築かれていました。そのため、秀吉らの軍は、足を取られて思うように攻撃できず、攻めあぐねていました。一方、城に籠る宗治らの約5千の兵は必死に防戦しました。

高松城史跡公園

このような中、秀吉は、毛利輝元らの援軍が来れば、全面対決となることを予想して信長に援軍を求めました。そして、秀吉は、膠着状態を打開するため、竹中半兵衛の死後、秀吉の軍師となった黒田官兵衛の水攻めという策を採用しました。すなわち、城の近くを流れる足守川をせき止め、その川の水を長さ約3キロメートル、高さ約7メートルの堤防を築いて城の周囲まで引き込みました。梅雨の雨も重なったため、12日間で完成させた堤防には大量の水が流れ込んできました。その結果、城の周囲は水で満たされ、城の低いところは水没してしまいました。

やがて、輝元が吉川元春と小早川隆景の軍と合わせて約5万の大軍を率いて到着しました。しかし、高松城はすでに周囲を水で満たされていたため、救いようがない状況でした。そして、両軍のにらみ合いが続いている中で和議の交渉が行われました。しかし、和議の条件について両者の溝は埋まりませんでした。一方、京都では本能寺の変が起こりました。すなわち、信長は秀吉の援軍要請に応じて安土城を出て本能寺に宿泊しました。一方、明智光秀は、中国攻めの先発を命じられましたが、軍を率いて本能寺の信長を襲いました。

これに対して、信長は、奮戦しましたが、わずかな供回りしか連れておらず、光秀軍によって追い詰められました。信長は死を悟って自害して果てました。このとき、信長の嫡男の信忠も襲われて自害して果てました。一方、秀吉の陣営においては、光秀が毛利に送った密使が偶然捕らえられました。このことによって、秀吉は信長の死を知りました。そして、秀吉は官兵衛の献策によって信長の敵討ちを果たすことを決意しました。そのため、条件を緩和して毛利との和議を急ぎ成立させました。

中国大返しと山崎の合戦

秀吉は、宗治の切腹を見届けると、速やかに陣払いを行いました。すなわち、秀吉は、徳川家康や織田家のどの家臣よりも先に逆賊の光秀を討ち果たすため、急ぎ京都に向かいました。そして、秀吉は、それを成し遂げることが織田家における自らの地位を押し上げ、天下取りを図る絶好の機会になるものと考えました。1582年6月5日、高松城近くの陣を払った秀吉らは、馬を駆って先を急ぎました。それに騎馬武者が続きました。

そして、歩兵の足軽や雑兵らが先行する騎馬武者を追いかけて走り続けました。総勢約2万の大軍による「中国大返し」と言われる大移動が開始されました。秀吉らは7日には約90キロメートル離れた秀吉の居城であった姫路城に戻りました。そして、9日まで休息して、次々と追いついてきた部隊を待って全軍を整えました。その後、明石、兵庫、尼崎、富田と移動しながら、秀吉は畿内の諸将などに援軍の要請を行いました。秀吉らは、12日には富田まで進軍して織田信孝を迎えるとともに中川清秀、高山右近、池田恒興らの軍と合流しました。

その移動の間、天候はほとんど雨でした。このように、悪天候にもかかわらず、大軍による長距離の移動が短時間で成し遂げられました。それには、移動する街道、替え馬や飲み食いの支度、宿泊地などについて綿密に計画を立て実行することが不可欠でした。これには、信長が毛利との戦いのために進軍してくることを想定して、整えられた街道、各所に設けられた休息所や兵糧の備蓄所などが利用されました。そして、ここでは長秀が采配を振るってその能力を発揮しました。

長秀は、必要な情報を集めて移動の計画を立て、必要な指示を出して大軍の迅速な移動を成功させました。すなわち、大軍の移動に先んじて、移動する街道に所在する地元勢力の協力を取り付けて、宿泊地を決めました。そして、替え馬の支度、飲み食いや休憩の時間や場所に合わせた炊き出し、握り飯、水などの支度を指示しました。このような長秀の働きによって、約2万の大軍は10日足らずという短期間で約200キロメートルの大移動を達成しました。

そして、13日には、秀吉らは、摂津(せっつ:現在の大阪府北西部と兵庫県南東部)と山城(やましろ:京都府南部)の境に位置する山崎の地で光秀との決戦に挑みました。秀吉軍は、合流した軍も合わせると、約4万の大軍に膨れ上がりました。長秀軍もその一翼を担っていました。これに対して、光秀軍の兵力は約1万6千でした。兵力において圧倒的に有利な秀吉らの軍は、光秀軍の側面を攻撃することに成功したため、光秀軍は耐え切れず総崩れとなりました。光秀は、少人数で居城の坂本城に向けて逃げましたが、途中、落ち武者狩りに遭って深手を負い自害しました。

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