ウィーン体制を構築した【メッテルニヒ(第1部)】についてわかりやすく解説!

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歴史・文化・自然

はじめに

クレメンス・フォン・メッテルニヒ(Klemens von Metternich)はオーストリア帝国の外相及び宰相になった人物です。メッテルニヒは、ナポレオンが破壊したヨーロッパの国際秩序を再構築するため、ウィーン会議を主導しました。そこでは、ヨーロッパにおける大国の勢力バランスに基づいた新たな国際秩序が構築されました。これをウィーン又はメッテルニヒ体制(1815年~1848年)と呼びます。

1789年に始まったフランス革命の思想や運動はヨーロッパ諸国にも広がりました。そして、このような動向が体制の崩壊につながることを恐れたヨーロッパの大国は、フランスの革命政府を抑え込むため、対仏軍事同盟を結成しました。フランスでは、ナポレオンが、権力を掌握してこの軍事同盟に対抗するため、ヨーロッパ諸国に対する解放戦争へと突入していきました。

この戦争によってヨーロッパ大陸の絶対王政は崩壊又は弱体化に直面しました。しかし、1814年、ナポレオンは、ワーテルロー(現ベルギーのブリュッセル郊外)でイギリス、オランダ、プロイセンの連合軍との戦いに敗れたため、フランス帝国は崩壊しました。そして、メッテルニヒが主導したウィーン体制が構築されることになりました。

ウィーン体制は、ヨーロッパにおけるフランス革命の流れを止めて、革命前の絶対王政に基づく国際秩序でした。メッテルニヒはそれを大国間の勢力バランスによって再建しました。この体制は19世紀前半においてヨーロッパに安定と平和をもたらしました。

しかし、自由と平等の尊重という時代の流れに逆行するものであったため、ウィーン体制は崩壊の火種を内包するものでもありました。1848年、ウィーンで3月革命が起こりました。そして、メッテルニヒは失脚しました。それはウィーン体制の終焉の始まりでした。その後、1871年に至り、ビスマルクがドイツ帝国を樹立しました。ビスマルクが主導する新たな国際秩序がヨーロッパに構築されました。

生い立ち

メッテルニヒ伯爵家は、現ドイツ西部に位置するラインラント地方の名門貴族でした。1773年5月15日、メッテルニヒは、この伯爵家の長男として、ライン川とモーゼル川が合流する現ドイツの都市コブレンツで生まれました。1788年、青年となったメッテルニヒは、フランスのストラスブール大学に入学して外交学などを学びました。

フランス革命

1789年、パリの民衆が蜂起してバスティーユ牢獄を襲撃するという暴動が起こりました。フランス革命の勃発でした。若いメッテルニヒは、革命による混乱を見聞して革命に対する嫌悪感を強く抱きました。そして、その経験はメッテルニヒの思想に強い影響を与えました。

1790年、メッテルニヒは両親の求めに応じて帰国しました。同年、神聖ローマ皇帝ヨーゼフ2世が崩御したため、新皇帝レオポルト2世の戴冠式が行われました。その際、メッテルニヒは式典を取り仕切るカソリック系伯爵団の式武官に任命されました。そして、見事にその任務を果たしました。そこで、メッテルニヒは、宮廷や中央政界における知名度を上げるとともに要人と接触する機会を得ました。

また、メッテルニヒは、現ドイツの南西部に位置するマインツ大学に移って外交学などを引き続き学びました。そして、大学が長期の休みのときには、父が公使を務めているオーストリア領ネーデルラント(現ベルギーとルクセンブルクの地域)の総監府で実務を経験しました。1792年、レオポルト2世が崩御したため、次の皇帝フランツ2世の戴冠式が行われました。メッテルニヒは再び式武官として戴冠式を取り仕切りました。

外交官として

1792年、フランス革命政府はオーストリア大公国に対して亡命した貴族の送還を要求しました。しかし、オーストリア大公国はそれに応じることがないため、フランス革命政府は同国に宣戦布告しました。この戦争がオーストリア大公国領のネーデルラントまで拡大すると、メッテルニヒは戦場においてネーデルラント総監府の伝令として活躍しました。

しかし、オーストリア大公国はフランス革命軍に敗れてネーデルラントを放棄しました。1793年、大英帝国を中心にして第1回対仏大同盟(軍事同盟)が結成され、オーストリア大公国もこれに加わりました。1794年、メッテルニヒは、戦費を調達するため、大英帝国に渡りました。そこで、国王や政界の中心人物に対してフランス革命戦争の状況を伝え、オーストリア大公国への支持を訴えました。

また、その経験はメッテルニヒが大英帝国で人脈を形成する機会にもなりました。そして、メッテルニヒは反革命的な保守主義思想を深めていきました。その後、メッテルニヒはウィーンに移動しました。1795年、メッテルニヒは、前宰相カウニッツ侯爵の孫娘エレオノーレと社交界で知り合って結婚しました。これにより、メッテルニヒは、侯爵の地位を与えられ、上級貴族として高級官職への道が開けました。

メッテルニヒ夫人のエレオノーレ

1796年、ナポレオンがイタリア遠征軍司令官に任命されました。オーストリア大公国は、イタリア北部にある同国の構成国において遠征してきたナポレオン軍と戦いましたが、敗北しました。1797年、オーストリア大公国はナポレオンとの間で秘密の和約(カンポ・フォルミオの和約)を締結しました。

その結果、オーストリア大公国は、北イタリア地域、ライン川左岸、ネーデルラント、イオニア諸島を失い、代わりにヴェネツィアを領有することになりました。1798年以降、メッテルニヒは、オーストリア大公国の代表としてフランス革命政府との和平交渉を行う第二次ラシュタット会議に出席しました。その一方で、オーストリア大公国は失った北イタリア地域を奪還しました。

そのため、1799年、フランス革命政府はオーストリア大公国に対して再び宣戦布告しました。これに対し、大英帝国はオーストリア大公国などを加えて第2回対仏大同盟を結成しました。しかし、1800年、オーストリア大公国は北イタリアの戦闘でナポレオン軍に再び敗れました。そして、1801年、オーストリア大公国はフランス革命政府と講和条約を締結しました。

それは、オーストリア大公国が奪還した北イタリア地域をフランスに返すなど、カンポ・フォルミオの和約によってフランス革命政府が獲得したものを確認するものでした。一方、メッテルニヒは、1801年にはザクセン選帝侯(神聖ローマ皇帝を選ぶ特権を持つ諸侯)領のドレスデンに駐在する公使になりました。そして、1803年にはプロイセンのベルリンに駐在する公使になりました。

1804年、フランスではナポレオンが皇帝の位に就き、フランス帝国が誕生しました。また、同年、神聖ローマ帝国皇帝フランツ2世はオーストリア帝国皇帝フランツ1世として即位しました。大英帝国などのヨーロッパの大国は、ナポレオン皇帝が対外戦争によってその勢力を拡大することを恐れて、1805年に第3回対仏大同盟を結成しました。

これまでフランスに敗北してきたオーストリア帝国もこの同盟に加わりました。そして、オーストリア帝国皇帝フランツ1世とロシア帝国皇帝アレクサンドル1世は、アウステルリッツ(現チェコの南モラヴィア地方のブルノ近郊)でフランス帝国皇帝ナポレオン1世と交戦しました。これは3人の皇帝による戦いだったので、三帝会戦と呼ばれています。結果はナポレオン軍が勝利しました。

フランツ1世とナポレオン1世

そのため、オーストリア帝国は多くの領土を失うなど大幅に譲歩しました。1806年、ナポレオン1世は、ヨーロッパ大陸での勢力を拡大するため、ライン同盟を結成しました。これにより、ナポレオン1世は神聖ローマ帝国を構成する諸国をライン同盟に組み入れました。その結果、フランツ2世は神聖ローマ帝国の皇帝を退き、神聖ローマ帝国は消滅しました。

神聖ローマ帝国は、962年にオットー大帝が即位したのがその始まりだよ!帝国の領域は時代によって変遷したけど、現在のドイツ、オーストリア、チェコ、イタリア北部を中心に存在していた大帝国だったんだ!1273年からはオーストリアを領有していたハプスブルク家が神聖ローマ帝国皇帝の位を引き継いできたんだ!だから、フランツ2世はハプスブルク家出身の皇帝だよ!

1618年にベーメン(現チェコの西部)の新教徒反乱から始まった三十年戦争は、ヨーロッパにおける国際的な戦争に拡大したんだ!その戦争によって帝国は分裂して皇帝の権力は形骸化したんだよ!1648年のウェストファリア条約によってその戦争は終結したけど、帝国内の多くの領邦は独立して、帝国自体は有名無実化してしまったんだよ!

そして、フランツ2世は、フランツ1世としてオーストリア皇帝の位のみを継続しました。このような状況の中で、同年、メッテルニヒがフランスのパリに駐在する大使として就任しました。フランツ1世は、メッテルニヒがオーストリア帝国(フランツ1世)とフランス帝国(ナポレオン1世)との関係を取り持つことを期待しました。1808年、ナポレオン1世は、スペイン王の地位を争って出兵し、スペインを占領しましたが、民衆の激しい抵抗にあったため、占領に手を焼いていました。

メッテルニヒ大使とナポレオン1世

これを知ったフランツ1世は、1809年、オーストリア帝国と大英帝国との間で軍事同盟を結成して、ナポレオン1世との戦いによって失った領土の奪還を試みました。しかし、フランツ1世のオーストリア帝国は今回も敗北しました。そして、オーストリア帝国は、この戦いにおいてウィーンを占領された後、さらに多くの領土を失うなどの屈辱的な講和条約を締結することになりました。

歴史的には、1809年に結成されたこの軍事同盟を第5回対仏大同盟と言う場合もあるよ!そして、遡って1806年に、大英帝国、ロシア帝国、プロイセン王国によって結成された対仏軍事同盟を第4回対仏大同盟と言う場合もあるんだ!

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