ドイツ帝国宰相ビスマルクの外交政策
1873年、ビスマルクは、フランス第三共和政の思想がヨーロッパ諸国に広がるのを防ぐとともに、ドイツ帝国の君主制を守るため、フランスの孤立化を策しました。そして、ビスマルクは、ロシア帝国とオーストリア=ハンガリー帝国(オーストリア)との間で三帝同盟を成立させました。
しかし、1877年、ロシアはオスマン帝国に対して宣戦布告を行いました。ロシアの意図は、南下政策によってバルカン半島に進出することでした。ロシアは、この戦争に勝ち、オスマン帝国との間にサン=ステファノ条約を締結して、その勢力をバルカン半島に広げました。
これに対して、オーストリアは、ロシアと同様にバルカン半島への進出を望んでいたので、強く反発しました。また、イギリスも、1856年のパリ条約(クリミア戦争の講和条約)に違反する行為として、強く反発しました。
このような状況の中、ビスマルクは、フランスを封じ込める目的で成立させた三帝同盟が崩れることを恐れ、対立する列国間の調停に乗り出しました。そして、1878年、ビスマルクは、公正な仲介人と称して、ベルリンで列国間の対立を調停するための国際会議を開催しました。
ビスマルクは、オスマン帝国の支配地域をロシア、オーストリア、イギリスのそれぞれに分配することで、対立を避けようとしました。会議の結果、ベルリン条約が締結され、ロシアによるバルカン半島での勢力拡大は抑えられました。
この仲介外交によってビスマルクは国際的評判を高めました。そして、ドイツ帝国はヨーロッパの列強の中では新参者でしたが、その地位も高まりました。一方、ロシアは、戦争によって獲得した権益を失うことにもなったため、ドイツに対して不満を募らせました。
1879年、三帝同盟は、ロシアが離脱したため解消しました。その結果、ビスマルクは、ロシアとの戦争を想定した軍事同盟をオーストリアとの間で締結しました。その後、ビスマルクの外交努力の結果、1881年に三帝同盟が新たに締結されました。その同盟では、一国が締結国以外と戦争する際には、他の二国は中立を守ることが約束されました。
1882年、ビスマルクは、オーストリアとの同盟にイタリアを加えて三国同盟を結成しました。それはロシアやフランスとの戦争を想定した軍事同盟でした。このように、ビスマルクは、秘密の同盟関係を重ねて成立させることによって、ドイツの安全保障を確保するための国際秩序を築きました。
しかし、ロシアとオーストリアとの潜在的な対立関係は解消されず、1885年、ロシア寄りのブルガリアが隣接地を併合したため、両国の対立は表面化しました。1887年、オーストリアが新三帝同盟の延長を断ったため、その同盟関係は解消しました。
同年、ビスマルクは、新三帝同盟の復活は困難と考えて、ロシアとの間で秘密の軍事同盟となる再保障条約を締結しました。この条約により、ドイツは、フランスとの戦争においてロシアの中立を約束させました。そして、ロシアは、オーストリア又はイギリスとの戦争においてドイツの中立を約束させました。
ドイツ帝国宰相ビスマルクの国内政策(アメとムチの政策)
19世紀の産業革命を通して、ドイツでも多くの工場労働者が生まれました。そして、19世紀後半には、ドイツで第2次産業革命(重工業や化学工業における技術革新)が起こりました。その一方で、過酷な労働環境に苦しむ労働者や失業者が多数生じたため、大きな社会問題となりました。
それに伴い、労働者の権利を保護するための社会主義運動が広がっていきました。1875年には、ドイツ社会主義労働者党(後のドイツ社会民主党)が結成されました。ビスマルクは、このような社会主義の広がりを、ドイツ帝国における立憲君主制とユンカーによる国内秩序の維持を脅かす危険なものと考えました。
そのため、1878年、ビスマルクは、皇帝ヴィルヘルム1世の狙撃事件を利用して、社会主義者鎮圧法を制定しました。これにより、社会主義や共産主義の集会、結社、出版、デモなどを厳しく取り締まりました。
その一方で、ビスマルクは、医療保険法(1883年)、災害保険法(1884年)、養老保険法(1889年)を制定して、社会保障制度の充実を図りました。このように、ビスマルクは、アメ(社会保障制度の充実)とムチ(社会主義者などに対する弾圧)と言われる政策を実行して、ドイツ帝国の維持に努めました。
ビスマルクの退陣と逝去
ビスマルクは、戦争と外交を巧みに操り、多くの領邦国家に分裂していたドイツを統一して、ドイツ帝国を樹立しました。その後、ビスマルクは、およそ20年にわたり、ドイツ帝国の初代宰相を務めました。
その間、ビスマルクは、アメとムチの政策で国内秩序の維持に努め、また同時に、外交手腕を発揮して、ヨーロッパの列強との同盟関係を複数成立させ、複雑な安全保障体制を築き上げました。
このように、ビスマルクの活躍によって、ドイツ帝国は大国の地位を獲得して平和を謳歌しました。1888年、ドイツ帝国の皇帝ヴィルヘルム1世が91歳で崩御しました。
ヴィルヘルム1世は、ビスマルクが、1862年にプロイセンの宰相に任命されてから、およそ26年にわたって仕えてきた君主でした。そして、皇帝の位を引き継いだのは、ヴィルヘルム1世の孫にあたるヴィルヘルム2世でした。
ビスマルクは、社会主義者鎮圧法の再更新などをめぐって、この若き皇帝との意見の対立が深刻になりました。その結果、ビスマルクは、1890年に宰相の職を罷免されたため、政界を引退しました。
1894年、ビスマルクが政界を引退してからおよそ4年が経過したとき、ビスマルクは妻ヨハンナを失いました。その時、ビスマルクは、家庭を守りながら夫に尽くしてきた、愛する妻の傍らで泣き崩れました。およそ4年後の1898年、亡き妻を思いながら、ビスマルクは83年の生涯を閉じました。
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