ノルマンディー上陸作戦の歴史的経緯
1939年9月、ドイツが西側からポーランドに侵攻したため、英国とフランスがドイツに宣戦布告しました。つまり、第2次世界大戦が勃発しました。同月、ソビエト連邦(ソ連)が東側からポーランドに侵攻したため、ポーランドは両国によって東西に分割して占領されました。さらに、ソ連はフィンランドにも侵攻しました。

1940年前半、ドイツは、デンマーク、ノルウェー、ルクセンブルク、オランダ、ベルギー、フランスに次々と侵攻しました。そして、南フランスにはドイツに協力的な政権が樹立されました。1940年6月、枢軸国(ドイツ側)としてイタリアが参戦しました。このようにして、西ヨーロッパでは、ドイツが、他国を併合したり、その勢力圏を拡大したりしました。
一方、東ヨーロッパでは、ソ連がドイツと同様に他国への侵略を繰り返しました。しかし、1941年6月、ドイツはソ連との不可侵条約を破ってソ連に侵攻しました。これにより、ソ連は連合国としてドイツと戦うことになりました。また、1941年12月、日本が米国への宣戦布告とともにハワイの真珠湾を奇襲攻撃しました。これに対し、米国も日本に宣戦布告しました。
このとき、日本はドイツやイタリアと軍事同盟(日独伊三国同盟)を締結していたため、米国はドイツやイタリアとの間でも戦争状態になりました。1943年7月、米国と英国の連合国軍はイタリアのシチリア島を攻略しました。その後、連合国軍はイタリア本土にも上陸しました。そのため、1943年9月、イタリアは連合国に降伏しました。
1943年11月、イランのテヘランで米国(ローズベルト大統領)、英国(チャーチル首相)、ソ連(スターリン書記長)によって首脳会談が開催されました。スターリンは、以前から、ドイツとの戦い(東部戦線)における自国軍の消耗や負担を減らすため、ドイツを東西から挟撃することを望んでいました。そのため、その会談でも、スターリンは、ローズベルトとチャーチルに対して、早期にフランスへの上陸を果たして西部戦線(第2戦線)を構築することを強く求めてきました。

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一方、チャーチルは、スターリンが、当初ドイツの片棒を担いで他国を侵略したり、自国の勢力圏を拡大したりしたことから、スターリンに対して不信感を抱いていました。さらに、チャーチルは、フランスに上陸する軍事的なリスクやソ連によるバルカン半島への進攻を心配していました。そのため、フランスへの上陸には反対してバルカン半島への上陸を主張しました。
しかし、ローズベルトは、太平洋戦争(対日戦)において速やかに勝利を図るためには、ソ連の参戦が必要と考えていました。そのため、スターリンに対して、西部戦線の構築(フランスへの上陸)を承諾する代わりに、ソ連が対日戦に参戦することを求めました。こうして、テヘラン会談では、西部戦線の構築とソ連の対日戦への参戦が約束されました。そして、1944年6月、連合国軍は、フランスのノルマンディー海岸に上陸してドイツに対して西部戦線(第2戦線)を構築しました。
ノルマンディー上陸作戦に向けた動き
アイゼンハワー米陸軍大将は連合国遠征軍最高司令官としてノルマンディー上陸作戦の総指揮官に就任しました。上陸作戦はネプチューン作戦(Operation Neptune)と呼ばれました。そして、上陸してパリを解放することを目標としました。この一連の作戦全体をオーバーロード作戦(Operation Overlord)と呼びました。また、作戦を決行する日をD-デイ(D-day)と呼びました。

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ドワイト・デイビッド・アイゼンハワー(Dwight David Eisenhower)米陸軍大将は、その後、陸軍元帥に昇進して陸軍参謀総長になったんだ!1948年に陸軍を退役した後は、コロンビア大学学長、NATO(北大西洋条約機構)軍最高司令官なったんだよ!そして、1953年1月には第34代米国大統領に就任して1961年1月まで共和党の大統領を2期務めたんだ!

上陸場所となったノルマンディー海岸は5つの上陸地点に分けられ、西から東に向かってユタ・ビーチ、オマハ・ビーチ、ゴールド・ビーチ、ジュノ・ビーチ、スウォード・ビーチというビーチ名が付けられました。ユタとオマハは米軍が担当しました。ゴールドとスウォードは英軍が担当しました。ジュノーはカナダ軍などの混成軍が担当しました。
作戦を実行する各軍の司令官として、陸軍司令官にモントゴメリー英陸軍大将、海軍司令官にラムゼー英海軍大将、空軍司令官にマロリー英空軍大将がそれぞれ就任しました。そして、この上陸作戦で最も過酷な戦いを強いられることになる米陸軍部隊を指揮する司令官にブラッドレー米陸軍中将が就任しました。
一方、ドイツ軍側では、西部戦線の最高司令官としてルントシュテット独陸軍元帥が西方総軍司令官でした。そして、ロンメル陸軍元帥が西方総軍の隷下軍団であったB軍集団の司令官に就任していました。これにより、ロンメルは、ベルギーからフランスのノルマンディー地域までの大西洋岸を防衛担当することになりました。ロンメルは、連合軍の航空勢力が優勢な状況で、内陸での戦い(特に戦車部隊による戦い)は、空からの攻撃にさらされるため、不利になると考えました。

そのため、海岸での戦いに攻撃力を集中することを主張しました。すなわち、上陸する連合国軍部隊が、その動きを鈍らせ、その装備を整えられない水際で、徹底的に叩いて上陸を阻止する作戦を考えました。しかし、ルントシュテットをはじめ上級司令部は、上陸した連合軍部隊を内陸まで誘い込み、機甲師団(戦車部隊)の機動力と攻撃力をもって連合国軍部隊を壊滅させることを考えていました。
この意見対立によって、機甲師団は海岸付近と内陸に分けて配置することになりました。その結果、どちらにも攻撃力を集中できない中途半端な防衛態勢となりました。また、英国の港湾都市ドーバーとフランスの港湾都市カレーとの間が約34キロメートルという最短距離にあるため、上陸地点についてはカレー周辺が最も可能性が高いと考えられていました。
そのため、上陸作戦の決行に先立ち、カレー地域への上陸の可能性を確信させるなどの誤解をドイツ軍に与えるため、連合国軍は様々な工作や軍事作戦を実行しました。すなわち、上陸作戦の決行日を欺くことを含め、上陸地点がノルマンディー海岸であることを悟られないように様々な対策が講じられました。また、連合国軍は、上陸の際のリスクを減らすため、ドイツ軍の飛行場や関連施設を爆撃して空からの攻撃を可能な限り封じました。

さらに、上陸地点で防衛態勢を敷いていたドイツ軍を孤立させるため、情報伝達を行う通信施設、補給物資や増援部隊を移動する鉄道や道路を爆撃して、使用困難の状態になるように努めました。その際には、ドイツ軍に上陸地点を悟られぬようにするため、連合国軍はノルマンディー地域以外の場所も含め広範囲にわたって爆撃を実施しました。
このような連合国軍の努力の甲斐もあって、ドイツ軍では、連合国軍の上陸が、英国からドーバー海峡を挟んで最短距離にあるカレー地域になると想定する意見が多数を占めていました。その結果、上陸に対する防衛態勢の整備もカレー周辺が優先されました。そして、ノルマンディー海岸での整備は遅れていました。
ノルマンディー上陸作戦のD-デイ
ノルマンディー上陸作戦では、空挺部隊が、上陸地点の内陸後方に送られ、海岸で防衛を担当するドイツ軍部隊を背後からけん制するとともに、上陸部隊の進路を確保する任務を与えられました。空挺部隊は輸送機で運ばれてパラシュートなどで目的地に降下するため、上陸する日の未明は風がなく、月明かりによって視界が良好であることが必要でした。

それは、上陸部隊が乗船する上陸用舟艇などが、悪天候による転覆などの被害を避けるためにも必要な気象条件でした。さらに、上陸の際の潮の満ち引きによる戦闘状況も検討されました。すなわち、満潮であれば、上陸部隊は、海岸近くに到達した上陸用舟艇などから下船して、ドイツ軍の防御陣地まで短い距離を進攻することになります。そのため、ドイツ軍の攻撃にさらされる時間は短くなります。その結果、その間の被害は減る可能性が高くなると考えられました。
一方、干潮であれば、下船してからの進攻する距離は長くなるので、ドイツ軍の攻撃にさらされる時間も長引くことになります。つまり、被害が増す可能性が高くなると考えられました。また、上陸部隊が到達する海岸線には、侵入を妨害するため、干潮時の海岸線から多くの障害物が設置されていました。そして、満潮になると、障害物は水没して隠れてしまいました。
そのため、上陸用舟艇などが、障害物に引っかかったり、衝突したりして航行できなくなれば、兵士は泳いで海岸まで到達しなければならなくなります。一方、干潮であれば、上陸用舟艇が障害物によって妨害される前に、兵士は、下船できましたが、長い時間をかけて浜辺を歩行又は走行して進攻しなければなりません。このように、干潮又は満潮時の上陸には一長一短があったなかで、連合国遠征軍司令部は作戦遂行になるべく適した潮位の日を選択しました。

すなわち、ノルマンディー海岸に上陸するうえで最適と考えられる気象や海象の状況が慎重に検討されました。そして、6月5日から7日までの3日間が上陸に最も適した期間と判断された中で、D-デイは6月5日にすることが決定されました。しかし、6月4日は発達した低気圧によってイギリス(英仏)海峡とその周辺は大荒れの天気となりました。そのため、その日の夜には翌日(6月5日)の上陸作戦実行の可能性について検討するため、連合国遠征軍司令部では会議が行われました。
そこで、詳細な気象情報が報告されるとともに、6月5日が上陸に適するかどうかについて意見具申が行われました。その結果、最高司令官のアイゼンハワー陸軍大将は6月6日に延期することを決定しました。つまり、D-デイは6月6日となりました。一方、ドイツ軍は、6月の上旬は悪天候が続くものと予測して、当分の間、上陸はないものと考えました。実際、ロンメルもそう判断して本国ドイツに一時帰国していました。つまり、ドイツ軍は油断していました。
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