【イングランドの海賊王ドレーク】艦隊を率いて、スペインの無敵艦隊を破る!

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歴史・文化・自然

フランシス・ドレーク

ドレークは1543年にイングランドの南部で生まれました。若い頃に従兄のジョン・ホーキンスのところに行き、彼のもとで奴隷貿易を行っていました。

船長となった後も、ホーキンス船団に加わり、奴隷貿易に携わっていましたが、スペイン海軍に攻撃され、船団は壊滅しました。

1570年以降、ドレークは、私掠船(敵国の船を襲撃して略奪することを認められた民間の船)の船長として、西インド諸島においてスペイン船を襲って海賊行為を行っていました。

奴隷貿易や海賊行為を行っていたドレークは、

今から考えると大悪人だね。

この時代、日本では、織田信長が、比叡山延暦寺を焼き討ちして、

僧侶をはじめ、女や子供まで殺戮したね。まさに大悪人だけど、

信長も日本史の偉人になっているね!

海賊の世界一周

1577~1580年、ドレークは、エリザベス女王の支援のもとで世界一周を果たしました。

ドレークは、プリマス港を出航して、アフリカ西岸から大西洋を横断して南アメリカに至りました。そして、彼の船団は、マゼラン海峡を通り、太平洋側に出て、チリやペルー沿岸でスペインの船や植民地を襲いました。

ドレークは、そこで莫大な金銀財宝を略奪しました。彼は、さらに北進して、北アメリカに至り、そこから太平洋を横断しました。そして、彼は、フィリピンを経由して南アフリカに至り、アフリカ大陸沖を北進して帰国しました。

ドレークは、莫大な富を本国イングランドに持ち帰り、熱狂をもって迎えられました。エリザベス女王は、ドレーク船団の支援者として多くの利益を得ました。

この利益によって、エリザベス女王は、負債をすべて返済することができました。また、その利益は、エリザベス女王が独占貿易を認めたレバント会社の設立にも役立ちました。これは後の東インド会社の先駆けとなりました。

エリザベス女王は、ドレークの功績を称えて、イングランド海軍の大幹部に任じ、ナイトの称号を授けました。

金銀財宝を略奪した海賊は、サー・フランシス・ドレーク

(フランシス・ドレーク卿)になったわけだ。まさに海賊の王だね!

ちなみに、スターウォーズのダース・ベイダーもベイダー卿でしたね。

余計なことでした。

無敵艦隊の派遣

このように、エリザベス女王は、敵対関係にあったスペインに対抗するため、ドレークの海賊行為を公認していました。

他方、この海賊行為に対して、スペイン国王のフェリペ2世は、エリザベス女王に対し強く抗議しましたが、女王は無視しました。

フェリペ2世は繰り返される海賊行為に激怒しました。そして、フェリペ2世は、エリザベス女王との諸々の対立が深まり、スペイン艦隊を派遣して、イングランドを攻撃することを遂に決断しました。

エリザベス女王は、フランシス・ドレークをイギリス艦隊副司令官に任命して、戦いに臨みました。この時、ドレークは、副司令官でしたが、事実上、指揮官として艦隊を率いました。

無敵艦隊の壊滅

1588年、イングランド艦隊を率いたドレークは、ドーバー海峡でスペインの無敵艦隊に遭遇しました。

スペイン側は、船を櫂で漕いで敵の船に衝突・接舷させて、敵の船に兵士を乗り込ませて戦うという白兵戦の戦法をとるつもりでした。

他方、ドレークは、小型の帆船を使い、その速さと小回りを生かして、敵艦との距離を保ちつつ、船に積んだ大砲で砲撃を加えるという戦法をとりました。

スペインは、これまで穏やかな地中海を海戦の場としてきました。しかし、イングランド周辺の海は、天候不順で荒れやすく、潮の流れも速いため、ドレークの戦法が功を奏した一方で、スペイン側は白兵戦に持ち込むことはできませんでした。

このため、イングランド側が優勢に戦いを進めましたが、無敵艦隊の壊滅には至りませんでした。しかし、遂に、スペイン側は、その士気が下がり、イングランドへの攻撃を諦めました。

スペイン側は、艦隊をまとめ、帰国することにしました。スペイン艦隊は、北進してアイルランドの北側を回ってスペインに戻るルートをとりましたが、北側の海で嵐に遭遇し、多くの船が遭難しました。その結果、無敵艦隊は壊滅しました。

英雄となった海賊王

この勝利によって、フランシス・ドレークはイングランドの英雄になりました。今もプリマスの港にはフランシス・ドレークの像が立っています。

1596年、ドレークは船上で息を引き取ったそうです。享年55歳でした。

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