プロイセンとデンマークとの戦争
デンマークとドイツ連邦との間には、シュレスヴィヒ公国とホルシュタイン公国がありました。両公国にはドイツ系とデンマーク系の住民が住んでいました。そして、ドイツ系住民が多く住むホルシュタインでは、デンマークからの分離独立を要求するようになりました。
1848年、フランスで二月革命が起こり、その影響がヨーロッパ諸国に広がりました。シュレスヴィヒとホルシュタイン両公国でも、ドイツ系住民が、民族自決を主張して、デンマークからの分離独立を求めて決起しました。そして、臨時政府を樹立しました。
プロイセンは、この決起を支援するために出兵して、デンマークに勝利しました。しかし、ロシア、イギリス、フランスがデンマークを支援したため、プロイセンは休戦に応じて、撤兵しました。
1852年、ロンドン議定書が締結されて、シュレスヴィヒとホルシュタイン両公国は、デンマークの下で独自の自治行政権を持つことが合意されました。すなわち、両公国はデンマーク憲法の適用から除外されました。
しかし、1863年、デンマークの新国王は、シュレスヴィヒ公国にデンマーク憲法を適用して、併合することを表明しました。シュレスヴィッヒ公国では住民が強く反発して、ホルシュタイン公国とともに臨時政府を樹立しました。
そして、臨時政府はプロイセンに対して支援を要請しました。これに対しビスマルクは、前回の支援が列強の介入を招いたという外交上の失敗を避けるため、臨時政府の要請に応じて出兵は行いませんでした。
1864年、ビスマルクは、あくまでロンドン議定書に違反するデンマークの行為を正すことを大義名分として、ロンドン議定書に加わっていたオーストリアとともにシュレスヴィヒ公国に出兵しました。
これによって、ビスマルクは、ロシア、イギリス、フランスなどがプロイセンの出兵に反対する口実を与えませんでした。優れた武器を備えたプロイセン軍は、デンマーク軍を圧倒して、短期間で勝利しました。
その結果、同年、講和会議がウィーンで開催されました。デンマークは、両公国を放棄して、プロイセンとオーストリアに引き渡すことが決まりました。ビスマルクは、外交上でも勝利して、シュレスヴィヒ・ホルシュタイン問題を終わらすことができました。
1865年、ガシュタイン協定がプロイセンとオーストリアとの間で締結されました。これにより、プロイセンはシュレスヴィヒを、オーストリアはホルシュタインを統治することになりました。
ビスマルクは、「愚者は経験から学び、賢者は歴史から学ぶ」という名言を
残しているけど、シュレスヴィヒ・ホルシュタイン問題において、同じ轍
(ドイツ系住民の支援を理由に出兵したことが、列国の介入を招いたこと)
を踏まないように、この問題の歴史から学んで、外交上の勝利を得たんだね!
プロイセンとオーストリアとの戦争
1848年の3月革命以来、ドイツ連邦内のプロイセンとオーストリアの間には、ドイツの統一をめぐって主導権争いがありました。また、デンマークとの戦争後、両国の間には、シュレスヴィヒとホルシュタインの支配についても対立がありました。
ビスマルクは、これらの問題を解決するため、オーストリアとの戦争が不可避であると考えました。そのため、ビスマルクは、外交的手腕を発揮して、プロイセンに有利な状況をつくり出しました。
すなわち、ビスマルクは、1865年、ナポレオン3世に対して、ライン川左岸地域の提供をほのめかして、フランスの中立をとりつけました。さらに、プロイセンは、イタリアと同盟を結んで、オーストリアとの戦争にイタリアを参戦させました。
1866年6月、プロイセンはオーストリアとの戦争に突入しました。ドイツ連邦を構成する領邦国家の多くは、オーストリア側について参戦しました。そのため、フランスなどはオーストリアが有利と考えました。
しかし、プロイセンのモルトケ参謀総長は、近代化した軍隊の用兵に鉄道による輸送と電信による命令伝達を巧みに利用して、オーストリア軍を圧倒しました。
そして、ケーニッヒグレーツの戦いで、プロイセン軍はオーストリア軍を破り、短期間で勝利を確実にしました。そのため、この戦争は「7週間戦争」とも呼ばれています。
その結果、同年8月にはプラハ条約が締結されました。これによって、プロイセンはシュレスヴィヒ・ホルシュタインの両方を領有することになりました。また、ドイツ連邦は解体して、オーストリアはドイツ統一から除外されました。
1867年、プロイセンは、北ドイツ全域の領邦国家などを含めて、北ドイツ連邦を結成しました。すなわち、ドイツは、プロイセンが主張する小ドイツ主義によって統一されることになりました。
モルトケ参謀総長は、ビスマルクがドイツを統一するうえで、
欠かせない重要人物だよ!彼は、近代ドイツ陸軍の父と呼ばれ、
産業革命の技術革新によってつくられた鉄道や電信を軍隊の用兵に
利用したり、参謀将校を各部隊に配置して、参謀本部から各部隊
への作戦命令の伝達を迅速・的確に行ったりして、軍隊のシステム
に革新をもたらしたんだ!
そして、多くの国の軍隊がこの参謀システムを導入していくんだよ!
プロイセンとフランスとの戦争
オーストリアとの戦争に勝利して、プロイセンを盟主とする北ドイツ連邦が成立しました。しかし、ドイツを統一するためには、ヴュルテンベルク王国、バイエルン王国、バーデン大公国などのドイツ南部を含める必要がありました。
一方、フランスのナポレオン3世は、隣国のドイツが、統一されて大国になることを警戒し、分裂している状態を望んでいました。また、ドイツ側へフランスの領土を拡大する野心もありました。
これに対しビスマルクは、ドイツを統一するためには、フランスとの戦争に勝利して、フランスの野望を打ち砕く必要があると考えました。
また、ビスマルクは、フランスと戦うことによって、ナポレオン1世の時代にドイツ領邦国家の領域がフランス軍に蹂躙された事実を思い起こさせ、復讐を理由に南ドイツの国々との団結心を強め、ドイツの統一につなげていくことを考えました。
1868年、スペインでクーデターが起こり、女王イサベル2世がフランスに亡命しました。そして、プロイセン王家につながるレオポルトがスペイン国王の候補にあがりました。これに対しフランスは、南の隣国スペインにプロイセンの勢力が及び、フランスが南北から挟まれることを恐れ、強く反対しました。
プロイセン王のヴィルヘルム1世はフランスの反対要請に応じました。レオポルトもスペイン国王の即位を辞退しました。しかし、フランスは、これに満足せず、プロイセン王家の関係者が今後とも決してスペイン王に即位しないことを約束するよう求めました。
これに対しヴィルヘルム1世は、フランスの要求を屈辱的と考え、拒絶しました。そして、ヴィルヘルム1世は、静養先のエムスからビスマルクに対し、そのことを電報で伝えるとともにこの問題の処理を任せました。
これを受け、ビスマルクは、フランスの屈辱的な要求に対して、プロイセン王が激怒していることを印象付けるように電報の内容を修正して公表しました。その結果、プロイセンでは、フランスの高飛車な要求に対して怒りが高まりました。一方、フランスでは、プロイセンの高慢な態度に憤りが募りました。これを「エムス電報事件」と言います。
1870年7月、ビスマルクの思惑通り、フランスは、世論に押されるようにプロイセンに対して宣戦布告を行いました。そして、南ドイツのヴュルテンベルク王国、バイエルン王国、バーデン大公国は、フランスをドイツの共通の敵として参戦しました。
また、ビスマルクは、外交的な手段を用いて、イギリス、ロシア、オーストリアがフランスとの戦争に介入しないようにしました。一方、モルトケ参謀総長の下で、プロイセン陸軍参謀本部はフランスとの戦争のための準備を整えていました。
すなわち、プロイセン軍は、優れた装備と必要な兵站(補給物資)を整え、フランスとの戦争に備えてきました。戦端が開かれると、プロイセン軍は、フランス軍の動向を的確に捉えて、確立された指揮命令系統の下で、約50万の兵員を迅速に鉄道で輸送して、フランス軍に対して効果的な攻撃を行いました。
同年8月、プロイセン軍は、フランスのアルザス・ロレーヌ地方(フランス北東部)に進撃して、連戦連勝を重ねました。一方、ナポレオン3世が率いるフランス軍は、メッス(ロレーヌ地方の都市)に集結して、プロイセン軍に対する反撃を試みました。
しかし、フランス軍は、敗退してシャロン(メッスの南約150kmに位置する都市)まで後退しました。そして、アルザス・ロレーヌ地方はプロイセン軍によって占領されました。
同年9月、ナポレオン3世は、フランス軍を率いて、スダン(フランス北部の都市)要塞に入りましたが、プロイセン軍に包囲され、激しく攻撃されました。その結果、ナポレオン3世は、フランス軍の将兵とともに降伏して捕虜となりました。
この敗戦によって、パリではクーデターが起きて、フランスの第二帝政は崩壊しました。そして、臨時の国防政府が樹立されました。ビスマルクは、国防政府に対して休戦を申し入れましたが、拒否されたため、プロイセン軍はパリに進軍しました。
1871年1月、フランスのヴェルサイユ宮殿においてドイツ帝国皇帝ヴィルヘルム1世の戴冠式が行われ、ドイツ帝国が樹立されました。同年5月、フランクフルト講和条約が締結されて、フランスとの戦争は終結しました。
その結果、ドイツは、アルザス・ロレーヌ地方と50億フランの賠償金を獲得しました。ここに、ビスマルクは、宿敵フランスを破り、ドイツの統一を成し遂げ、ドイツ帝国の初代宰相に就任しました。
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