【IMF(国際通貨基金)】の歴史的な役割についてわかりやすく解説!

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国際・政治

IMFの設立経緯

1929年、ニューヨークのウォール街での株価暴落が、銀行や企業の倒産を招き、失業者が増大しました。この米国の大恐慌は、またたく間に世界中に広がりました。そのため、各国はこの大恐慌から抜け出そうとしました。

すなわち、第一次世界大戦後、各国は金本位制に復帰しましたが、大恐慌によって世界中で金融不安が高まり、各国の経済は、金本位制が機能しなくなるほど混乱しました。そのため、各国は、金本位制を停止して、管理通貨制度に移行しました。

そして、各国は、自国の通貨の価値を切り下げて、輸入を減らし、輸出を増やして、景気を拡大することによって大恐慌から抜け出そうしました。しかし、自国の経済状態を改善するため、各国が競って行ったこのような政策は、近隣窮乏化政策として他国(貿易相手国)の経済状態を悪化させることになりました。

これによって、世界の貿易は著しく縮小して、不況はさらに深刻化していきました。このような状況は、国際経済のブロック化を引き起こしました。そして、これらのブロック経済圏は、保護貿易に走り、互いに対立していきました。

金本位制とは、各国が、自国の通貨を一定量の金と同じ価値にして、

通貨と金との交換を保証する制度だよ!この制度によって、

各国は、金の保有量に応じて通貨の発行量を決めることになるね!

だから、自国の通貨と他国の通貨とを交換するときも、

それぞれの通貨と金との交換価値を通して、

交換比率が決まることになるよ!

つまり、為替相場(取引価格/交換比率)が定まることになるね!

管理通貨制度とは、各国が、金の保有量に関係なく、経済状況などを

考慮しながら、必要に応じて自国の通貨を発行する制度だよ!

だから、通貨の価値も固定されず、為替相場も変動することになるよ!

さらに、これらの対立は、軍国主義やファシズムを台頭させ、第二次世界大戦を引き起こす原因ともなりました。このような過ちを二度と起こさないために、1944年7月、米国ニューハンプシャー州のブレトンウッズで、44か国の連合国政府代表が集まり、連合国通貨金融会議が開催されました。

そこでは、戦後世界における保護貿易主義の排除と貿易の拡大を確かなものにするための枠組みやルールについて話し合われました。そして、戦後の国際通貨制度を確立するため、国際通貨基金(IMF: International Monetary Fund)協定と国際復興開発銀行(IBRD)/世界銀行(WB)協定が調印されました。

両協定に基づく国際通貨制度は「ブレトンウッズ体制」と呼ばれました。1945年、最初の加盟国として29か国がIMF協定に署名し、IMFが発足しました。1946年、IMFは、国際連合憲章に基づき、国際連合と連携関係をもつ専門機関になりました。

そして、1947年、同協定が発効してIMFは業務を開始しました。日本は、1952年に53番目のIMF加盟国になりました。ちなみに、現在のIMF加盟国は190か国です。

金ドル本位制とIMF平価

米国は、第二次世界大戦後、世界最大の金の保有国になりました。そして、ブレトンウッズ体制において、金1オンスは35米ドルと交換できることが定められました。IMFが設立された後、IMFの加盟国は、自国通貨と米ドルとの交換比率(IMF平価)を固定することになりました。

そのため、各加盟国は、固定されたIMF平価の上下1%以内で為替相場を維持することが義務づけられました。このようにして、IMFは、米ドルを基軸通貨として、金ドル本位制に基づく固定相場制を採用することになりました。

先にも述べたように、各国による為替相場の切り下げ競争が、第二次世界大戦を引き起こした原因ともなりました。このような過ちを防ぐため、IMFは、金ドル本位制に基づく国際通貨制度の安定的な維持に重要な役割を果たしてきました。

1946年以降、加盟国のIMF平価が設定されていきました。ちなみに、日本の場合、1953年に1米ドルが360円のIMF平価が設定されました。

金ドル本位制とIMF平価/固定相場制の崩壊

国際通貨制度は、ドルを基軸通貨とする固定相場制、いわゆるブレトンウッズ体制/IMF体制の下で運営されました。1965年以降、米国は、ベトナム戦争に本格的に介入して、多額の戦費を負担しました。

多額の戦費は、財政赤字、国際収支の悪化、インフレをもたらしました。さらに、米国は、対外無償援助を拡大しました。また、日本をはじめ海外各国から米国への輸出が著しく増加したため、米国は輸入超過の状態にもなりました。その結果、米国の国際収支は大幅に悪化していきました。

一方、米国以外の各国は、米国への輸出などによって、米ドルの保有を増やしていきました。さらに、各国は米ドルを米国の金と交換したため、米国が保有する金は減少していきました。そのため、米国は、各国の要請に応じて米ドルを金と交換することができなくなっていきました。

このような状況を踏まえ、1971年8月、ニクソン米国大統領は、金と米ドルとの交換停止を発表しました。これはニクソン・ショックと呼ばれました。これにより、金ドル本位制は崩壊して米ドルの信頼は失われてしまいました。

これを受け、IMF加盟国の先進10か国(米国、英国、ドイツ、フランス、イタリア、オランダ、ベルギー、スウェーデン、カナダ、日本)による蔵相会議が、米国のスミソニアン博物館で開催されました。

そこでは、金と米ドルとの交換を停止したままで、各国通貨の為替相場を切り上げて、固定相場制を維持することが決められました。ちなみに、日本の円は、1米ドルに対して360円から308円に切り上げられました。これをスミソニアン体制と呼びます。

しかし、その後も、米ドルの価値の下落は止まらず、この体制を維持することは不可能になり、1973年から変動相場制に移行しました。その結果、ブレトンウッズ体制とその後のスミソニアン体制は崩壊して、IMFが主導的な役割を果たしてきた固定相場制は終焉しました。

変動相場制におけるIMFの役割

このような国際通貨制度の歴史的な転換に伴って、IMF協定の改正が、1976年に採択され、1978年に発効しました。これにより、固定相場制から変動相場制への移行が追認されました。

そして、IMF加盟国は、自国の為替相場制度を自由に選択することが可能となりました。その結果、IMFには、IMF平価に基づく固定相場制を維持するという役割がなくなりました。

その後、IMFは、国際収支の著しい悪化によって経済的な破綻に直面している加盟国や開発途上の加盟国などに対して支援(融資)を行ったり、能力開発を必要としている加盟国に対し、金融や為替などの政策に関する技術支援や研修を提供したりする役割を強化していきました。

しかし一方では、IMFの融資条件などにおける問題点が指摘されました。すなわち、融資先の加盟国の経済状況を踏まえず、画一的に緊縮財政政策の実施を求めたため、経済状況の悪化を招いたり、必ずしも必要としない構造改革を求めたため、社会不安を助長したり、危機を克服するうえで融資額が不十分であったりしました。

そのため、経済・金融危機やこれらの問題などを踏まえて、IMFの改革が進められてきました。すなわち、IMFの融資制度、ガバナンス、監視体制について改革が行われてきました。このようにして、IMFは、歴史的な役割を変えつつ、その存在意義を果たしてきました。





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