ジャンヌ・ダルクの生い立ち
ジャンヌは、1412年1月6日にフランスのドンレミ村(現在のドンレミ・ラ・ピュセル、フランスの北東部にあるロレーヌ地方の町)で、農夫の4番目の子供として生まれました。そして、兄妹が多い、裕福な農家で、普通の女の子として育ちました。
キリスト教(カトリック)を深く信じていることは、この時代の人たちに共通していたことですが、特にジャンヌは信心深い少女でした。そんなジャンヌの生涯に一大転機となる出来事が起こりました。
それは、ジャンヌが13歳のときでした。彼女が外をひとりで歩いていると、目の前に大天使聖ミカエル、聖カタリナ、聖マルガリタが姿を現しました。そして、「王太子シャルルを助け、イングランド王家軍と戦い、王太子を戴冠させなさい」という神のお告げを聞きました。
大天使聖ミカエルは、神が最初に創造した天使で、最強の戦士であるとともに最も重要な天使です。聖カタリナは、ローマ皇帝から口説かれ、キリスト教を放棄するよう命じられましたが、拒否したため、斬首され、西暦305年頃に殉教したと言われています。
キリストの花嫁とみなされ、乙女と女学生の守護聖人です。聖マルガリタは、高官からキリスト教の放棄と結婚を求められましたが、拒否したため、拷問のうえ斬首にされ、西暦310年頃に殉教したと言われています。妊婦・出産の守護聖人です。
神のお告げを聞いてから3年後の1428年、16歳になったジャンヌは、親類のデュラン・ラソワに頼みで、一緒にヴォークルールに行きました。そこで、守備隊長であるボードリクール伯に会いました。そして、ジャンヌは、神のお告げを聞いたので、シャルル王太子に謁見したい旨を伝えましたが、相手にされませんでした。
しかし、ジャンヌは、諦めず、翌年に再び訪れて、同じことを申し入れました。そして、オルレアン近郊でフランス王家軍が敗北することを予言しました。数日後、ボードリクール伯に「ニシンの戦い(1429年2月12日)」と呼ばれたオルレアン近郊の戦いで、フランス王家軍が敗北したことを知らせる報告が届きました。
イングランド王家軍が、バリケードとしてニシンが入った樽を使ったんだ。それが破壊されて、戦場にニシンが散乱したため、この戦いを「ニシンの戦い」と呼んだそうだよ。
驚いたボードリクール伯は、ジャンヌの利用価値を認めて、ジャンヌをシャルル王太子のいるシノン城へ送り出しました。ジャンヌが予言した戦いとは、イングランド王家軍とフランス及びスコットランド王家軍の戦いでした。
1429年3月9日、ジャンヌは王太子シャルルに謁見することになりました。王太子は、ジャンヌに興味を持ちましたが、臣下の者たちは、罠を恐れて反対しました。そのため、代わりの者が、王太子のふりをして、ジャンヌに会いましたが、ジャンヌは、偽者であることを見抜きました。そして、多くの臣下に紛れてジャンヌを観察していた王太子を一目で見つけ出しました。
ジャンヌは、王太子の前に跪いて、正当な王位継承者として、王太子をランスの大聖堂で、即位させることを神が命じた旨を伝えました。フランスでは、王位に就くためには、ランスの大聖堂で戴冠式を挙げることが伝統になっていました。
また、王太子は、側近を遠ざけてジャンヌと2人だけで会いました。この話し合いによって、王太子はジャンヌを信じることにしたと言われています。そして、王太子は、ジャンヌを調査させ、さらに聖職者の審問にかけて、純潔(処女)で敬虔なキリスト教徒であることを証明させました。
1429年3月22日、王太子は、17歳のジャンヌが、軍隊を率いる司令官として、オルレアン包囲戦に参戦することを許しました。このようにして、ジャンヌは百年戦争の英雄としての道を歩み出しました。
百年戦争
百年戦争とは、1337年~1453年の間、休戦を挟みながら、イングランド王家とフランス王家との間で、100年以上も続いた戦争のことです。この戦争は、フランス西南部のアキテーヌ地方の支配権とフランスの王位継承権をめぐって、両王家が争ったことが発端になりました。
戦いは、フランス国内で行われました。前半においては、イングランド王家軍が優勢でした。休戦を挟み、後半になると、フランス王のシャルル6世(1368~1422)が精神病になったために、摂政の地位をめぐって、フランス王家側が、ブルゴーニュ派とアルマニャック派に分裂して内紛状態になりました。
一方、イングランド王のヘンリー5世(1387~1422)は、百年戦争の休戦中にもかかわらず、フランス王家側の内紛状態に乗じて、フランスへの遠征を開始しました。そして、1415年には、アジャンクールの戦いでフランス王家軍に大勝しました。
その後、ヘンリー5世は、ブルゴーニュ派と結んで、シャルル6世の娘カトリーヌと結婚して、フランスの王位を狙いました。しかし、1422年、ヘンリー5世は病気のため死亡しました。そのため、その子のヘンリー6世がフランス王位を継承することを宣言しました。
また、1422年にはシャルル6世も死去しました。そのため、アルマニャック派とシャルル王太子(シャルル6世の子)は、フランス王位の継承を主張して、イングランド王家と対立しました。このような中で、1429年3月9日、ジャンヌ・ダルクがシャルル王太子に謁見しました。
オルレアンの乙女
1428年、イングランド王家はオルレアンを包囲しました。オルレアンとは、フランス北中部に位置し、ロワール川沿いにある町です。当時、イングランド王家軍とブルゴーニュ公国は、パリを含むフランス北部を支配していました。
そして、オルレアンは、イングランド王家軍がフランスの中南部へ侵攻するうえで重要な拠点でした。包囲は半年近くに及びました。その間、シャルル王太子側はオルレアンを救援することができませんでした。
1429年4月29日、ジャンヌはオルレアンに到着しました。強い信仰心を持つジャンヌは、戦いの常識や慣行にとらわれず、兵士たちの先頭に立って突き進みました。死を恐れず、突撃する可憐な乙女の勇敢な姿は、兵士たちの心をとらえ、その勇気を奮い立たせました。
ジャンヌが率いる部隊は、激しい戦いの後、イングランド王家軍の砦を陥落させました。これをきっかけに、オルレアンの守備隊は、戦闘を有利に進め、同年の5月上旬には、イングランド王家軍はオルレアンから撤退しました。そして、オルレアンの町は解放されました。ジャンヌは、その名声を高め、「オルレアンの乙女」と呼ばれ、称賛されました。
1429年7月29日、シャルル王太子は、ランスのノートルダム大聖堂で戴冠式を行い、シャルル7世としてフランス王に即位しました。そして、この戴冠式に列席したジャンヌは、神のお告げを果たすことができました。ここから、シャルル7世が率いるフランス王家軍の巻き返しが開始されました。
ジャンヌ・ダルクの処刑
1430年5月、ジャンヌは、北フランスのコンピエーニュ包囲戦で、ブルゴーニュ派のフランス兵によって捕らえられてしまいました。イングランド王家側が身代金を支払ったので、ジャンヌは、イングランド王家側に引き渡されました。
そして、1431年2月21日、ジャンヌは、イングランド王家側が占領していたフランス北部のルーアンで、宗教裁判にかけられました。そこでは、異端の審問が繰り返し行われました。イングランド王家側が支配する場所での裁判は、ジャンヌには不利なものでした。
最終的には、男装をしたこと(兵士として鎧兜を身に着けたことなど)や教会を通さず直接神の信託を受けたことが理由となって有罪とされ、死刑を宣告されました。しかし、その直後に、ジャンヌは、自らの過ちを認めたため、永久入牢(終身刑)に減刑されましたが、牢獄に入れられた後、男装をしてしまいました。
そのため、再度審問が行われ、ジャンヌは再び死刑の宣告を受けました。男装したのは、信仰心のあつい、純真なジャンヌが、牢獄の番兵に暴行されるのを恐れたためだったと言われています。この結末には、ルーアンを支配していたイングランド王家側の影が見え隠れしたとも言われています。
1431年5月30日、ジャンヌは、ルーアンのヴィユ・マルシェ広場で、火あぶりの刑によって命を落としました。 歴史の舞台に登場して2年あまり、19歳の乙女はその生涯を閉じました。この間に、シャルル7世が救いの手を差し伸べることはなかったそうです。
聖ジャンヌ・ダルク
1435年、シャルル7世は、ブルゴーニュ公と講和して、フランスの内紛をおさめたため、その勢力は拡大しました。そして、シャルル7世が率いるフランス王家軍は、イングランド王家軍への反撃を強めていきました。
1453年には、フランスにおいて、イングランド王家が支配する地域はカレー(フランス北部の港町)を除いてなくなりました。こうして、百年戦争は終結しました。フランス王家による統治が確立すると、ジャンヌ・ダルクの復権を求める動きが強まりました。
そして、1455年、パリのノートルダム大聖堂でジャンヌの復権裁判が始まりました。1456年7月7日には、異端審問における有罪は取り消されて、ジャンヌの名誉は回復しました。
その後、19世紀末に至ると、ジャンヌをカトリック教会の聖人として認めることを求める運動が起こりました。1897年にローマ教皇のもとで、その審理が始まりました。
1908年12月には、福者という称号がジャンヌに与えられました。そして、1920年5月、ローマのサン・ピエトロ聖堂で、列聖の式典が行われ、ジャンヌ・ダルクは聖人に列せられました。
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