井伊直政の生い立ち
1561年(永禄4年)、井伊直政は、遠江国祝田(現在の静岡県浜松市北区)で、今川家の家臣であった井伊直親の嫡男として生まれました。幼名は万千代でした。しかし、翌年、父の直親は今川方の謀略により殺害されました。
そのため、今川方に子の直政も暗殺されることを恐れて、各地を転々として、所在を隠していました。1572年(元亀3年)、直政は、母の再婚先がある浜松に住み、再婚相手の養子となり、名を松下虎松としました。
1575年(天正3年)、直政は、小姓として徳川家康に仕えました。また、名を井伊万千代に改め、井伊家の再興を果たしました。1576年(天正4年)、直政は、遠江芝原における家康と武田勝頼との戦いで、初陣を果たし、武功を立てました。
井伊直政という人物
直政は、美男子で気が強い性格でした。家康に若くして抜擢されて、家康の側近の中でも出世頭になりました。そのため、直政は、自らの実力で家康に重用されていることを証明するべく、戦では、自ら先頭に立って突進し、勇猛に戦いました。
直政は、自らを厳しく律するとともに、家臣にも厳しくあたったため、逃げ出す者もいたそうです。「武田の赤備え」を引き継いだ後は、諸将から「井伊の赤備え」と呼ばれて、恐れられました。直政自身も、赤一色の甲冑を身にまとい、兜には鬼の角のような飾りをつけていたため、赤鬼と恐れられた猛将になりました。
武田信玄に仕えた山県昌景は、赤一色の甲冑を身にまとった
最強の騎馬隊を編成しました。それは「武田の赤備え」と呼ばれ、
恐れられていました!
また、直政は、交渉や調略にも優れていたため、寝返りや和議を成立させたり、戦後の処理をこなしたりして、様々な交渉役も担当しました。このようにして、直政は、家康から高く評価されるとともに、家康以外の武将からも一目置かれる立場になりました。
戦陣での井伊直政の働き
1579年(天正7年)、直政は、武田勝頼から高天神城を奪還するための戦いで、本多忠勝や榊原康政とともに先鋒を務めました。直政らの活躍によって、家康は高天神城を取り戻すことができました。
1582年(天正10)、旧武田領をめぐって、家康は北条氏直と衝突しました。 この戦いでは、家康軍は、兵力では圧倒的に劣勢でしたが、北条軍を打ち破りました。この勝利の影の立役者だったのが直政でした。直政は、係争地の武士らと交渉して、味方にすることに成功していました。また、北条方との和議においても、直政は交渉役として和睦を成立させました。
家康は、直政に対し、味方にした旧武田家の武士を直政の配下に入れて、武田軍の兵法を継承し、「武田の赤備え」を引き継ぐように命じました。これによって、直政は、「井伊の赤備え」と呼ばれる精鋭部隊を編成しました。
1584年(天正12年)、小牧・長久手の戦いでは、直政は先鋒として活躍しました。自ら先頭に立ち、長槍を振るって、敵を蹴散らしました。このとき、羽柴(豊臣)軍に「井伊の赤備え」の強さを知らしめました。
1590年(天正18年)、秀吉による北条征伐で、家康は小田原城の攻囲に加わりました。このとき、秀吉は、難攻不落の小田原城をすぐには攻めず、持久戦の構えをとりました。その中で、直政は、夜襲をしかけて、城内に侵入し、多くの敵兵を打ち取りました。
北条征伐の後、家康は江戸の地に国替えとなりました。そして、直政は、上野国(現在の群馬県)箕輪に12万石の恩賞を与えられました。
1600年(慶長5年)、関ヶ原の戦いに向けて、直政は、本多忠勝とともに東軍(家康方)の軍監に任命されました。また、直政は、忠勝とともに、京極高次や稲葉貞通などの諸将を味方につける交渉にも成功しました。
関ヶ原の戦いでは、直政は、娘婿の松平忠吉(家康の4男)とともに抜け駆けをして、戦端を開くきっかけをつくりました。また、西軍の敗色が濃厚になったため、島津軍(西軍)が敵前突破して撤退しようとしたとき、直政は追撃をかけました。そのとき、直政は島津兵に狙撃されました。
直政は、関ヶ原の戦いの後も、西軍の総大将である毛利方と和議を行い、周防・長門(山口県)の2か国を安堵することで和議をまとめました。また、島津方とも交渉を行い、薩摩・大隅(鹿児島県)を安堵して、徳川の支配下に入れることに成功しました。
直政は、関ヶ原の戦いを勝利に導いた功労によって、近江(滋賀県)の佐和山城主として、18万石を与えられました。
井伊直政の死
1602年(慶長7年)、直政は42歳でこの世を去りました。関ヶ原の戦いで負った鉄砲傷が悪化したとも、働き続けたことによる過労死とも、そしてその両方が原因とも言われています。
その後、井伊家は、彦根藩30万石を領して発展しました。井伊家から江戸幕府の大老を務めたものもいました。そして、歴史的人物としては、幕末に大老となった井伊直弼がいました。
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