【ブラック・プリンス(エドワード黒太子)】百年戦争の英雄をわかりやすく解説!

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ブラック・プリンス(エドワード黒太子)

ブラック・プリンスとは、イングランド王家のエドワード王子のことです。エドワード王子は、軍人として優れた戦術家で、百年戦争の前半において活躍しました。そして、エドワード王子は、フランス王家との戦いで、勝利を重ねたため、「ブラック・プリンス(エドワード黒太子)」と呼ばれて、フランス王家側から恐れられました。

百年戦争とは、1337年~1453年の間、休戦を挟みながら、イングランド王家とフランス王家との間で行われた戦争のことです。この戦争は、フランス西南部のアキテーヌ地方の支配権とフランスの王位継承権をめぐって、両王家が争ったことが発端になりました。

戦争の前半においては、エドワード王子の活躍もあって、イングランド王家軍が優位に立ちました。その後、休戦を挟み、イングランド王家軍がフランスへの遠征を開始して攻勢をかけました。しかし、1429年、オルレアン包囲戦にジャンヌ・ダルクが参戦したことがきっかけになって、フランス王家軍が優勢に転じました。そして、フランスを戦場にした百年戦争は、フランス王家軍が、カレー(北フランスの港町)以外のフランスの領土を奪還して終了しました。

エドワード王子は、黒い鋼の鎧兜を身に着けて、戦ったことから、ブラック・プリンスと呼ばれたと言われています。一方、住民に対するエドワード王子の残虐なふるまいから、そう呼ばれたという話もあるそうです。

また、エドワード王子は、フランス王家軍との戦いに勝利した際に、捕虜になったフランス王のジャン2世に対して敬意をもって接したり、敵味方の区別なく、戦場での死者を丁重に葬ったりしたことから、中世の騎士道精神を持った人物であったとも語られています。

しかし一方では、フランスのアキテーヌ地方の領主になった際には、浪費家であったことから、住民に対して重税を課したり、冷酷なふるまいをしたりしたとも言われています。

エドワード黒太子の生い立ち

1330年、エドワード王子は、イングランド王のエドワード3世の長男として、オックスフォードシャーのウッドストック宮殿で生まれました。

1337年、エドワード王子は、イングランド王の長男として、コーンウォール公に任じられました。

1343年、エドワード王子は、イングランドの第1位王位継承権者(皇太子)として、ウェールズ公(プリンス・オブ・ウェールズ)に任じられました。

イングランド王のエドワード1世は、ウェールズを征服したとき,

ウェールズ人の反感を和らげるため、妃にウェールズで王子(エドワード2世)

を出産させたんだ。そして、王子を「プリンス・オブ・ウェールズ」として

お披露目をしたのさ。これが、第1位王位継承権者がこの称号を与えられる

ようになった始まりだよ。15世紀以降には、このことが慣習になったんだ。

1346年、エドワード3世に従い、エドワード王子は、16歳でイングランド王家軍を率いて初陣を果たしました。イングランド王家軍は、フランスに上陸して、ノルマンディー地方を攻略しながらパリに向けて進軍しました。

一方、フランス王のフィリップ6世は、3万から4万人のフランス王家軍を集結させて対抗しました。これに対して、約1万2千人のイングランド王家軍は、クレシーまで移動してフランス王家軍を待ち受けました。イングランド王家軍は、3倍の敵と戦いましたが、長弓隊を上手く活用して勝利を収めることができました。エドワード王子は初陣を勝利で飾りました。

1347年、カレー包囲戦に参加して勝利しました。

1348年、エドワード3世が創設したガーター騎士団に選ばれました。

1350年、21歳のときには、エドワード3世に従い、ウィンチェルシーの海戦に参加して勝利しました。

エドワード黒太子の主な戦歴

1356年、26歳のとき、エドワード王子は、自らの軍隊を率いて、ポワティエでフランス王のジャン2世の軍隊と激突しました。イングランド軍の約8千人に対して、フランス軍は約1万5千人でした。エドワード王子は、数的には不利でしたが、長弓隊を活用した戦術によって、大勝利を収め、ジャン2世を捕虜にしました。これにより、イングランドは圧倒的に有利な立場になりました。

1360年、イングランド王家は、フランス王家との間でブレティニー・カレー条約を締結して、休戦しました。この条約によって、イングランド王は、フランス王位の主張を撤回して、ブルターニュとフランドルの宗主権を放棄しました。そして、フランス南西部のアキテーヌ地方を獲得しました。

1362年、エドワード王子は、アキテーヌ公に任命され、広大なアキテーヌ地方の領主となりました。しかし、エドワード王子は、派手好きで、浪費を重ねたため、住民に重税を課すとともに、イングランド人を優遇する振る舞いもあったため、徐々に住民の不満は高まっていきました。

1367年、エドワード王子は、カスティーリア王家(現在のほぼスペインに当たる地域の支配者)におけるペドロ1世とエンリケ2世の王位継承戦争に介入しました。そして、ナヘラの戦いではエドワード王子は、ペドロ1世の軍を支援して、エンリケ2世の軍に大勝しました。エンリケ2世は、この戦いで、ゲクラン(百年戦争のフランス王家側の英雄)が率いた傭兵隊の支援を受けていました。

すなわち、この戦いは、イングランド王家とフランス王家の代理戦争の様相を呈しました。ナヘラの戦いでは、ペドロ1世側が約1万人で、これに対するエンリケ2世側が約4千5百人の兵力でした。エドワード王子は、長弓隊と重騎兵隊を率いて、エンリケ2世とゲクランの軍隊を破り、ゲクランを捕虜にしました。

一方、エドワード王子は、この戦いで赤痢にかかり、また、戦費の負担をめぐってペドロ1世と対立したため、アキテーヌに帰還しました。その後、ペドロ1世は、解放されたゲクランが司令官となったエンリケ2世側の軍に敗北して、戦死したと伝えられています。

1368年、エドワード王子は、浪費と戦争によって悪化した財政を立て直すために、アキテーヌで重税を課しました。これに対して、アキテーヌの貴族たちは、フランス王のシャルル5世に不満を訴えたところ、シャルル5世はアキテーヌ公領の没収を宣言しました。

1369年、これにより、休戦していた百年戦争は再び始まりました。

1370年、エドワード王子は、赤痢にかかっていましたが、出陣して、フランス王家軍に奪還されたリモージュを奪い返しました。戦いの後、王子は、フランス王家軍に寝返ったことを理由に多くの住民を虐殺したため、イングランド王家に対する反感が益々高まりました。

エドワード黒太子の死

1371年、エドワード王子は、赤痢が悪化したため、イングランドに戻りました。その後、イングランド王家は、アキテーヌ地方の多くを失っていきました。

1376年、エドワード王子は45歳で赤痢のためにその生涯を閉じました。

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