【大河ドラマ「光る君へ」に登場する藤原道長!】公家の栄華を極め、紫式部を支えた人物!

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藤原道長

645年、中大兄皇子(天智天皇)と中臣鎌足(なかとみのかまたり)は、蘇我氏(大和政権の有力豪族)を打倒して、天皇を中心とする政治を取り戻しました。その後、「大化の改新」という政治改革が行われました。

このような中で、中臣鎌足は、その功績が認められて、藤原姓を賜りました。藤原鎌足の子である藤原不比等(ふひと)が藤原氏を引き継ぎました。そして、藤原不比等の子の代から、藤原家は、南家、北家、式家、京家の四つの家系にわかれました。

藤原道長(ふじわらのみちなが)は、この名門貴族として藤原北家に生まれました。北家は、摂政や関白など高級官職を独占する家柄でした。この家系の中で、道長は、平安中期の最高権力者として、藤原氏の全盛期を築いた人物でした。

藤原道長の生涯

966年、道長は藤原兼家(かねいえ)の三男として生まれました。二人の兄である道隆(みちたか)と道兼(みちかね)は後に関白になりました。そして、二人の姉である超子(ちょうし)と詮子(せんし)は、それぞれ天皇に嫁ぎ、皇太后になりました。

986年、父の兼家は、花山天皇を出家・退位させて、娘の詮子が産んだ子を66代の一条天皇として即位させました。そして、兼家は摂政に任じられました。これにより、兄たちとともに、道長も順調に昇進していきました。また、道長は、源倫子(みなもとのりんし)と結婚し、一条天皇の后となる娘を授かりました。

990年、父の兼家が死去すると、長男の道隆が後を継いで、関白・摂政に就任しました。そして、自分の娘である定子(ていし)を一条天皇の皇后としました。これにより、父と同様に生まれた子を天皇に即位させて、自らは外祖父として権力を振るうことを狙いました。

995年、二人の兄(道隆と道兼)が次々に病没しました。その結果、道長は、道隆の子である伊周(これちか)と当主の座を巡って争うことになりました。時の天皇(一条天皇)の母である詮子(道長の姉)が後押ししたこともあって、道長が摂政や関白に準ずる役職に当たる内覧(ないらん)に任命されました。翌年には、左大臣として、実権を握ることになりました。

999年、道長は、長女の彰子(しょうし)を一条天皇に嫁がせました。一条天皇は、すでに道隆の娘(定子)を后にしていましたが、道長は、二人目の后にして、強引に外祖父になりました。

1008年、彰子は、後一条天皇となる敦成(あつひら)親王(一条天皇の第二皇子)を出産しました。

その後、道長は、敦成親王を天皇にするため、定子が産んだ敦康(あつやす)親王(一条天皇の第一皇子)と一条天皇の後を継ぐことになる三条天皇の第一皇子(母は皇后の娍子(じょうし))である敦明(あつあきら)親王の即位を阻止するべく、圧力を加えるなどの働きかけを行っていきました。

1011年、一条天皇が崩御して、67代の三条天皇が即位すると、道長は、次女の妍子(けんし)を三条天皇の二番目の后としました。三条天皇の母は、道長のもう一人の姉の超子でした。

1016年、道長は、眼の患いを理由にして、三条天皇を強引に退位させました。そして、68代の後一条天皇として、敦成親王を即位させました。これにより、道長は摂政に任じられました。

1017年、外祖父として権力を握った道長は、子の頼通(よりみち)に摂政の地位を譲りました。そして、自らは朝廷を操るための工作を続けました。

1018年、道長は、後一条天皇にもう一人の娘である威子(いし)を后として嫁がせました。一つの家から3人の后を出すという「一家三后(いっかさんごう)」を達成した道長は、藤原北家の絶頂期を迎えることになりました。

後一条天皇は、11歳で、20歳の叔母に当たる姉さん

女房をおしつけられたことになるよ!

道長の権力への執着が半端ないね!

同年、一家三后が達成した夜に、道長は盛大な祝宴を開きました。そのとき、道長は、「この世をば 我が世とぞ思ふ 望月(満月)の 欠けたることも なしと思へば」と自らの心境を歌に詠みました。すなわち、道長は、「満月に欠けるもののないように、この世は私のもののように感じられる」という意味を表現しました。

1028年、栄華を極めた道長は、62歳で亡くなりました。死因は糖尿病による感染症と考えられています。喉が渇いて水をたくさん飲む、目が見えなくなる、などの糖尿病の症状や背中に大きな腫物ができたことを示す記録が残っているそうです。

藤原道長の足跡

天皇に代わって、摂政や関白が政治を行うことを「摂関政治」と言います。藤原家は、代々娘を天皇に嫁がせて、天皇家の外戚になり、摂政や関白の地位に就いてきました。道長は、3人の娘を天皇の后とすることで、摂関政治の全盛期を築きました。

ただ、道長は、後一条天皇のときに、1年ほど摂政を務めただけで、関白にもなりませんでした。道長にとっては、摂政や関白の地位に就くよりも、左大臣や内覧という地位の方が、政治の実権を握るうえで都合が良かったと考えられています。

道長は文学を好んだことでも知られています。そのため、漢詩や和歌を多く詠みました。道長の漢詩は、「本朝麗藻(ほんちょうれいそう)」に多く収められています。和歌は、後拾遺集(ごしゅういしゅう)などの勅撰集(天皇が編纂を命じた和歌集)に多く選出されています。また、道長の「御堂関白記(みどうかんぱくき)」には、当時の政治や生活の様子が記されています。

また、道長の娘の彰子が天皇の后になったとき、道長は、紫式部を女房(朝廷に仕える女官)としてつけました。紫式部と言えば、「源氏物語」が有名ですが、道長は、紫式部が源氏物語を執筆するのを支援したそうです。二人には特別の関係があったと言われています。

道長は、出家してから、阿弥陀堂を建立し、さらに、金堂、五大堂、西北院なども建立しました。そして、摂関時代の最大の寺院として、法成寺(ほうじょうじ)を創建しました。法成寺は現存していませんが、宇治の平等院にその面影が残されているそうです。平等院は、子の頼通が道長の別荘を寺に改めたものです。法成寺をモデルにしたとも言われています。

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