史上最大の作戦【ノルマンディー上陸作戦】についてわかりやすく解説(後編)!

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ノルマンディー上陸作戦の空挺部隊

1944年6月6日の未明、英国本土では、2万人以上の空挺部隊の隊員が、1,000機以上の輸送機や輸送機に牽引されたグライダーに乗り込み、上陸地点を守るドイツ軍の背後となるフランス内陸部に向かって飛び立ちました。夜明け前には、フランス上空に到達した空挺部隊は、輸送機からパラシュートで降下したり、輸送機から切り離されたグライダーで滑空したりしました。

これに対し、ドイツ軍は、対空砲火などによって輸送機や降下する空挺部隊を攻撃しました。暗闇の中で、パラシュートやグライダーで降下する隊員は、攻撃によって墜落したり、着地を失敗したり、降下地点を誤ったりしたため、死傷者が多く出ました。また、グライダーに積載されていた軽車両や火砲などの装備にも損害が生じました。

それでも、降下した空挺部隊は、海岸沿いに設置されたドイツ軍の防衛線の背後で軍事作戦を実行することによって、防衛線を守るドイツ軍に大きな脅威を与えることができました。そして、それはドイツ軍の混乱と防衛線からの撤退を促すことになりました。

ノルマンディー上陸作戦の上陸部隊

上陸部隊を乗せた輸送船が英国本土を出港してノルマンディー海岸の沖合に到達する頃、制空権と制海権を掌握していた連合国軍は、圧倒的な数の空軍の航空機と海軍の戦艦や巡洋艦などから、ドイツ軍の防御陣地や砲台などに対して猛烈な爆撃と艦砲射撃を実施しました。一方、ドイツ軍は砲台などを厚いコンクリートで要塞化していました。そのため、それらの施設は完全に破壊されたり無力化されたりすることはありませんでした。

それでも、そこを守るドイツ軍の部隊に対して損害を与えることはできました。そして、空爆と艦砲射撃が終了してからまもなく、沖合に停泊していた輸送船から上陸用舟艇に乗り込んだ上陸部隊の兵員が、ノルマンディー海岸に向けて大挙して押し寄せました。その数は戦車などの装備を搭載した揚陸艦を含めて全体で約4,000隻に達しました。

上陸地点は5つのビーチに区分されていました。西側のユタ、オマハと名付けられた上陸地点には米軍部隊が進攻しました。中央のゴールドと東側のスウォードと名付けられた上陸地点には英軍部隊が進攻しました。そして、ゴールドとスウォードの間に位置するジュノと名付けられた上陸地点にはカナダ軍などの混成部隊が進攻しました。

上陸地点と戦況

6日の朝(6時半頃)、ユタ・ビーチに向かった上陸部隊(米軍)の上陸用舟艇は、海流に押し流されて予定の上陸地点から約2キロメートル近く南の海岸に到達しました。そこは、当初の上陸地点よりもドイツ軍の守備隊は手薄でした。そのため、守備しているドイツ軍によって攻撃されましたが、揚陸艦から戦車などの装備を陸揚げして反撃することができました。

そして、上陸部隊はドイツ軍の防御陣地を突破して内陸に向かって進軍しました。上陸部隊の目標は、コタンタン半島の先端に位置する港町シェルブール(Cherbourg)の奪還でした。そのため、上陸部隊は、内陸に降下した空挺部隊と連絡を取りながら、同半島を北上しました。多くの場所でドイツ軍の激しい抵抗を受けましたが、上陸部隊は、ドイツ軍を孤立させながら、その抵抗を排除しました。そして、6月27日に至り、目標としていたシェルブールを占領することに成功しました。

同じ頃、別の上陸部隊(米軍)がオマハ・ビーチに向かいました。そこでは、空軍の爆撃や海軍の艦砲射撃によるドイツ軍の損害は比較的少なかったため、海岸に沿った丘の上には、ドイツ軍の強力な防御陣地が依然として機能していました。さらに、そこを守るドイツ軍は東部戦線で激しい戦いを経験してきた強力な部隊でした。上陸地点に向かった上陸用舟艇や海上輸送装置が取り付けられた戦車などは、高波の中でドイツ軍から激しい砲火を浴びて沈没したり、航行できなくなったりしたものが多数ありました。

それでも、上陸部隊は、海岸近くに到達した上陸用舟艇から下船して、厚いコンクリートの壁に覆われた防御陣地に突撃しました。これに対して、ドイツ軍は機銃掃射などによって激しく抵抗しました。上陸部隊は、重火器による援護もなかったため、多数の死傷者を出すとともに、前進を阻まれて潮が満ち始めた砂浜に釘付けになりました。

ブラッドレー司令官(米陸軍中将)は、オマハ・ビーチの戦況報告を受けたとき、ドイツ軍の防御陣地を無力化して状況を打破するため、海軍に対して再度の艦砲射撃を要請しました。その後、海軍艦艇が実施した集中砲火は、ドイツ軍の守備隊に対して相当程度損害を与えることができました。その結果、上陸部隊はドイツ軍の防御陣地を突破してその抵抗を排除することができました。

また、オマハ・ビーチの西側にはオック岬がありました。その断崖上には要塞化された対艦攻撃用の砲台が設置されていました。そして、その砲台は、隣のユタ・ビーチとオマハ・ビーチの中間に位置していたため、両ビーチの上陸部隊や後続して上陸する部隊などを攻撃することが可能でした。そのため、上陸部隊にとってはその砲台の攻略が急務でした。そして、米軍精鋭のレンジャー部隊がその任務を命じられました。

砲台にたどり着くにはおよそ30メートルの崖をよじ登る必要があったため、レンジャー部隊は、発射式のかぎ付きロープや縄梯子などを使って崖を登りましたが、頭上からはドイツ軍の守備隊によって激しい銃撃が浴びせられました。そのため、任務にあたった約200名の隊員は、その数を約90名まで減らす損害を出しました。このように、レンジャー部隊は大きな犠牲を払いながらも断崖上の砲台をついに攻略することができました。

しかし、そこにあるはずの155ミリの大砲はすでに移動されていました。大きな犠牲を払った上陸部隊は、ドイツ軍の防御陣地を突破した後、目標としていたノルマンディー海岸の内陸西側に位置する都市サン・ロー(Saint-Lô)の奪還に向けて前進しましたが、再びドイツ軍の激しい抵抗を受けました。そのため、上陸部隊は進軍できず、膠着状態が続きましたが、7月17日に至り、遂にサン・ローの占領に成功しました。

ゴールド、ジュノ、スウォードの各ビーチの上陸部隊は英軍の統制下にありました。これらの上陸部隊を指揮したのはモントゴメリー英陸軍大将でした。この3つのビーチの上陸部隊は、ユタとオマハのビーチに上陸した米軍部隊より1時間以上遅れて、7時半から8時頃に上陸作戦を開始しました。すなわち、より多くの時間をかけてドイツ軍の防御陣地に対する艦砲射撃を実施しました。

また、干潮時に設置された障害物によって妨害されるリスクはありましたが、上げ潮の中で輸送船は海岸寄りに停泊しました。これによって、輸送船から上陸用舟艇に乗り移った部隊は、高波にもまれながらも、海岸に到達するまでの時間を短くすることができました。すなわち、ドイツ軍の攻撃にさらされる時間も短縮することができました。

ゴールド・ビーチでは、当初、上陸部隊は、ドイツ軍の守備隊によって激しい攻撃を受けましたが、少ない損害でドイツ軍の防御陣地を突破して内陸に侵攻しました。ジュノ・ビーチでは、上陸部隊は、一定の損害を出しながらも、守備隊を一掃して内陸に進攻しました。スウォード・ビーチでは、上陸部隊は、戦車の援護を受けながら、ドイツ軍の守備隊による抵抗を排除して内陸に進撃しました。

このように、3つのビーチでは、ドイツ軍の抵抗はあったものの、上陸部隊は、大きな損害を出すことなく、ドイツ軍の防御陣地を奪取して内陸に進むことができました。そして、この3つのビーチの上陸部隊は、ノルマンディー海岸の内陸中央に位置する都市カーン(Caen)を奪還することを目標としていました。

そこに向けて進撃を開始した上陸部隊は、ドイツ軍の強力な抵抗を受けましたが、7月21日には、カーンを攻略することに成功しました。D-デイと呼ばれた1944年6月6日、連合国軍は、第2次世界大戦(ヨーロッパ戦線)において、フランスへの上陸を達成して西部戦線を構築することに成功しました。そして、史上最大の作戦と呼ばれたノルマンディー上陸作戦は、連合国軍が勝利を確実にするための分岐点となりました。

6月6日、ノルマンディー海岸の5か所では、後続する連合国軍の部隊が次々と上陸しました。そして、戦車や火砲などの装備も続々と陸揚げされました。上陸初日の1日で、約16万人の将兵が英仏海峡を越えてフランスに上陸しました。この上陸作戦においては、連合国軍とドイツ軍の将兵を合わせて数万人の死傷者が出ました。また、フランス市民にも数万人の犠牲者を出すことになりました。

ノルマンディー上陸作戦を描いたハリウッド映画を紹介するね!1962年に製作された「史上最大の作戦(The Longest Day)」というタイトルの作品だよ。もちろん、映画だから、歴史に基づき創作されたものだけど、ノルマンディー上陸作戦という歴史上の事実を知る一助になると思うよ!

この映画は、当時の有名なベテラン俳優や若手俳優が多く出演している大作で、第35回アカデミー賞の撮影賞と特殊効果賞を受賞したんだ!ポール・アンカが作詞作曲した音楽は、勇ましい行進曲だけど、なんとなく物悲しさもあって、とても心に残るメロディだよ!古い作品だけど、ノルマンディー上陸作戦に興味のある方は観る価値があるよ!

ちなみに、主な出演者は次のとおりだよ!ジョン・ウェイン、ヘンリー・フォンダ、クルト・ユルゲンス、ロバート・ミッチャム、ロバート・ライアン、リチャード・バートン、ロッド・スタイガー、ショーン・コネリー、ロバート・ワグナーなど

その後

1944年6月22日、東部戦線においては、ソ連軍が現在のベラルーシでドイツ軍に対して大攻勢を開始しました。一方、西部戦線を構築した連合国軍は、同年8月25日にフランスのパリをドイツ軍から解放しました。1945年3月、連合国軍はドイツ国内を流れるライン川を渡河しました。同年4月、ソ連軍はドイツの首都ベルリンを包囲しました。同年4月30日、ドイツの敗戦が確定的となったとき、ヒトラー総統が自殺しました。同年5月7日、ドイツは連合国に無条件降伏しました。

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