経済学の父【アダム・スミス】についてわかりやすく解説!

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アダム・スミスとその時代背景

アダム・スミス(Adam Smith、1723年~1790年)は、資本主義経済の基礎的な理論を説明したイギリスの経済学者で、それを「国富論(諸国民の富の性質と原因に関する研究)」として書き著しました。すなわち、アダム・スミスは、経済学の父と呼ばれ、現代経済学の基礎を築きました。

イギリスでは、1600年、エリザベス女王が商人たちの求めに応じて東アジアでの貿易独占権を認めました。そして、彼らはイギリス東インド会社を設立して貿易の利益を独占しました。その後、16世紀~18世紀にかけて、イギリスは、この東インド会社を通して重商主義政策を推し進めてきました。重商主義とは貿易を通して金銀や貨幣などの富を蓄えることです。

1688年、名誉革命という無血の市民革命が起きました。そして、1689年、新しく王位に就いたウィリアム3世とメアリ2世(共同統治)は権利の宣言を承認しました。これを受けて、議会は権利の章典を制定しました。 これによって、国民の権利や自由が確認されました。すなわち、「王は君臨すれども統治せず」という立憲君主制が確立しました。

1713年、スペイン継承戦争の講和条約(ユトレヒト条約)によって、イギリスはフランスとスペインから奴隷貿易の権利を譲渡されました。そして、イギリス商人は、大西洋での三角貿易(イギリス、アフリカ、アメリカ大陸)で奴隷の供給を独占して、莫大な利益を得るようになりました。

1721年、ホイッグ党のウォルポールが第一大蔵卿に任命されました。ウォルポールは、約20年に渡ってイギリスの内政と外交を主導したため、イギリスの最初の首相と呼ばれました。ウォルポールは、関税などによって国内の産業を保護する政策を行い、また、戦争を避けることによって財政の支出を抑えました。

しかし、その後、イギリスは重商主義政策の下で戦争によって植民地を拡大していきました。1756年~1763年、イギリスはフランスとの間で7年戦争と植民地戦争を行って勝利しました。1763年には、イギリスは、フランスとスペインとの間でパリ条約(平和条約)を締結して、北アメリカやインドでの勢力圏を拡大しました。

一方、1760年代になると、イギリスでは、紡績の機械化が進み、木綿糸の大量生産が行われました。すなわち、産業革命と呼ばれる技術革新が始まりました。1780年代には、蒸気機関が機械の原動力に応用されたため、工業生産力が飛躍的に増大しました。 そして、イギリスは、このような国内工業を発展させるため、工業製品を販売する市場を海外に求めていきました。

すなわち、イギリスによる植民地の拡大は、産業革命によって大量に生産された工業製品を独占的に送り込むための市場を拡大することを意味するようになりました。その一方で、イギリスは、植民地拡大戦争の戦費を支払ってきたため、財政難に陥っていました。そして、それを補うため、イギリスは北アメリカ植民地に対する課税を強化しました。しかし、1773年、イギリスは自国の東インド会社に対して北アメリカ植民地で販売する茶には免税権を与えました。

これに反発した現地の人々は、東インド会社の船を襲撃して茶をボストン港に棄てました。この事件が1775年から1783年まで続くアメリカ独立戦争の発端になりました。このような時代背景の中で、1776年、アダム・スミスは、「国富論」の中で、国家が介入しない自由な経済活動が国を豊かにするということを提唱しました。

アダム・スミスの略歴

1723年、アダム・スミスはスコットランドの港町カーコーディで生まれました。父は亡くなっていたため、母に育てられました。生涯独身で母と暮らしました。1737年、アダム・スミスはグラスゴー大学に入学しました。そこでは、自然法思想を継承する哲学者フランシス・ハチスンから道徳哲学を学び、その思想を継承しました。

1740年、アダム・スミスは、グラスゴー大学を卒業してからオックスフォード大学に入学しました。しかし、授業に飽き足らず、1746年に中途退学して故郷に戻りました。1748年~1751年、アダム・スミスはエディンバラ大学で文学・修辞学、法学などの公開講義を行いました。1751年には、グラスゴー大学の論理学教授に就任しました。

グラスゴー大学

そして、翌年(1752年)、同大学の道徳哲学の教授となって神学、倫理学、法学などを講義しました。また、哲学者デイビッド・ヒュームと出会い、ヒュームの思想から大きな影響を受けました。1759年、アダム・スミスが哲学者として著した「道徳感情論」が刊行されました。道徳感情論においては、共感や公平な観察者などの概念を用いて道徳の一般法則の形成が論じられました。

ちなみに、道徳感情論は1790年に第6版が最終版として刊行されました。1764年、アダム・スミスはグラスゴー大学教授を辞任しました。そして、バックルー公爵のフランスなどへの長期旅行に家庭教師として同行しました。そこでは、ボルテールやケネーなどの啓蒙思想家らと交流したため、彼らの思想から影響を受けました。1766年、アダム・スミスはフランスからイギリスのロンドンに帰国しました。

翌年(1767年)には、アダム・スミスは故郷のカーコーディに帰り、国富論を執筆するための研究に着手しました。1776年、国富論の初版が刊行されました。その後、1791年の最終版まで6版が刊行されました。1778年、アダム・スミスはスコットランドの関税委員に任命されました。1787年にはグラスゴー大学の名誉総長に就任しました。そして、1790年、アダム・スミスは67歳で亡くなりました。

国富論の刊行とその影響

1767年に、アダム・スミスは、故郷のスコットランド(カーコーディ)に帰って、国富論を執筆するための研究に着手しました。そして、国富論は1773年に刊行されました。この時期、イギリスでは、産業革命によって高品質で安価な綿製品を大量に生産することができるようになりました。そのため、イギリスは、重商主義政策の下、インドをはじめ海外植民地などに綿製品を輸出して利益を上げていました。

すなわち、金銀を獲得して蓄えることが国を豊かにするという考え(重商主義)に基づき、輸入による支出を減らし、輸出による収入を増やす貿易を促進しました。また、イギリスでは、東インド会社が女王から特権を受けて以来、外国貿易を独占して国富(金銀の蓄積)を増大させてきました。これに対して、アダム・スミスは国富論の中でこのような重商主義政策を批判しました。

国富論では、国民の経済活動に対する国家の統制や介入を最低限にすること、そして、特権商人による貿易の独占を排除すべきことが提唱されました。また、国富の源泉は労働にあるとして、国の豊かさは、労働の生産力の高さと資財(消費財、固定資本、流動資本)の増加によってもたらされること、そして、労働の生産力は分業や資財の蓄積によって高まることが論じられました。

さらに、個人が自己の利益を追求すれば、「見えざる手」に導かれて社会全体で適切な資源配分が行われるので、社会の繁栄と調和につながるということが論じられました。すなわち、市場において自由に競争することによって生産性は向上して国富が増大すること、そして、外国貿易による利益は自由貿易に基づく市場の拡大によってもたらされることが論じられました。

このように、アダム・スミスが国富論で唱えた思想は、自由放任主義と呼ばれ、同時期に起きた産業革命によって確立された資本主義経済を発展させる思想的支柱になりました。そして、イギリスでは、重商主義政策から自由主義経済政策への転換が行われ、産業革命によってもたらされた資本主義経済の発展に邁進していきました。

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