勇猛なスパルタ戦士の戦い【映画300(スリーハンドレッド)】をわかりやすく解説!

当サイトは、アフィリエイト広告を利用しています。

スポーツ・娯楽

映画300

古代ギリシアとペルシアとの戦争がこの映画の舞台です。当時、ギリシアはアテネやスパルタなど多くのポリス(都市国家)に分かれていました。映画の主人公はスパルタ王レオニダスです。スパルタは数あるポリスの中でも特異の存在でした。それは典型的な戦士国家であったということです。スパルタの男は生まれると選別されて健康な子は戦士として育てられました。すなわち、男子は、強靭な肉体をつくり上げながら、実践的な戦闘訓練を受けました。

そして、その戦士教育から脱落した者は容赦なく切り捨てられました。したがって、スパルタの男は戦士として戦場で戦うことが栄光と考えました。つまり、降伏などはありえませんでした。この映画は、そんなスパルタの戦士300人が100万とも言われたペルシアの大軍と激突する戦いを描いた映画です。映画の中では、100万の大軍を前に怯むことなく立ち向かい、戦士たちを奮い立たせるスパルタ王の勇姿が描かれています。

そして、勇猛なスパルタの戦士たちは、見渡す限りの大軍に対して悲壮感漂う戦いに挑みます。その姿は胸に迫るものがあります。この戦いは歴史上有名な戦いで、テルモピュライ(テルモピレー)の戦いと呼ばれています。まさに、歴史を題材にしたスペクタクル・アクション映画です。この映画の見どころは、スパルタの戦士たちの激しい戦闘場面です。その戦いは、「ファランクス」と呼ばれた重装歩兵の密集陣形を駆使して行われます。

重装歩兵と言っても、この時代は、兜をかぶり、槍と盾と剣で武装した兵士のことで、それ以外はほぼ裸でした。すなわち、スパルタの戦士たちは、右手に槍を持ち、左手で盾を構えて、横に密集隊形を組み、それを縦に複数列つくります。横列の戦士は、壁となって突撃してくる敵を盾で食い止めます。そして、食い止められて身動きできない敵を槍で刺して倒します。

この場面では、集団で突撃してくる敵の重圧を食い止めるため、戦士ひとりひとりが相当のパワーとテクニックを兼ね備えていることを想像させます。また、雨のように空から降り注ぐ敵の矢を盾で防ぐ場面も迫力があります。そして、スパルタの戦士たちは、王の命令一下、一糸乱れず、これらの防御や攻撃の陣形を次々と組んでいきます。とても見応えのある場面です。

一方、スパルタ国内では、王妃ゴルゴが、裏切り者に翻弄されながらも、夫であるレオニダス王のために援軍を求めて最善を尽くしています。しかし、1人の戦士が、レオニダス王と戦士たちの戦いぶりを伝えるため、王の命令によって戦場から戻ります。そして、王妃に王の死を知らせます。その後、スパルタは、ペルシア軍との次の戦いに備え、この戦士を中心にして全軍に動員をかけます。映画はここで終わります。

ちなみに、歴史上では、翌年、ペルシア軍は再び進攻してきましたが、スパルタとアテネの連合軍に進軍を阻止され、敗退しました。この映画はR15+指定(15歳未満の鑑賞禁止)です。古代の時代背景を表すためか、映像全体は暗く、グロテスクな場面もあります。そして、戦闘場面では、戦術や陣形の巧みさを除けば、槍や剣などを使った残虐な殺人です。したがって、歴史や戦闘に興味のない方には、気味の悪い場面が特に印象に残るかもしれません。それを踏まえてご覧ください。

歴史上のスパルタの戦士

厳しい特訓をスパルタ教育と呼ぶことがあります。その言葉はまさにスパルタの戦士訓練(教育)を語源としています。スパルタの男子は、生まれると、戦士として育てられる身体かどうか検査・選別されました。そして、7歳になると、親から離されて訓練のための厳しい集団生活に入りました。集団生活は30歳まで続きました。その間、彼らは、忠誠心や団結心とともに強靭な精神力を身に付けるため、また、体を鍛え、戦闘能力を向上させるため、必要な訓練を繰り返し行いました。

特に実践的な戦闘訓練が行われました。敵と見なす者をためらいもなく殺すことに主眼が置かれました。鍛錬や訓練などに成果が出ない者は、怠け者として打擲などの罰が与えられました。また、食事は粗末なものでしたが、狩りを行うことや奴隷を殺して食べ物を奪うことが許されていました。集団生活による訓練期間が終了した後も、戦士として戦闘訓練を中心とする生活を送りました。

そのため、農業などの生産労働は奴隷が行いました。また、スパルタの戦士には定期的な身体検査が義務付けられていました。戦闘に不向きな身体(肥満など)になった場合には、罰が与えられました。そして、この訓練の仕上げとなるのが、先にも解説したファランクスという集団密集陣形による戦闘を完璧にこなす能力を身に付けることでした。

この隊形では、隊長の命令一下、左手の盾と右手の槍を自由に操る腕力や敵の重圧を押しのける脚力などの肉体面の強さとともに、敵の攻撃に怯まず、死をも恐れない精神面の強さを必要としました。このように、スパルタの男は、生まれたときから戦士として育てられました。そのため、戦い抜いて戦死することが最大の名誉とされました。その結果、スパルタは、ギリシアのポリスの中で最も強い陸軍大国でした。

歴史上のペルシア戦争

ペルシア戦争とは、BC(紀元前)5世紀前半にペルシア帝国とギリシアのポリス連合との間で行われた戦争のことで、第1次~第4次に渡る長い戦いのことです。第1次ペルシア戦争は、BC500年、ペルシアが支配していたイオニア地方のミレトス(ポリス)で、ペルシア帝国に対する反乱が起きたことが発端になりました。BC492年、この反乱を支援していたギリシアのアテネなどのポリスを討伐するため、ペルシアの大王ダレイオス1世はペルシア艦隊を派遣しました。

しかし、艦隊は暴風に遭遇して壊滅してしまいました。そのため、討伐軍の派遣は失敗しました。第2次ペルシア戦争では、BC490年、ダレイオス1世が、再びギリシアのポリスを討伐するため、軍隊を派遣しました。そして、ペルシア軍はアテネの主要港マラトンに上陸しました。アテネ側は、他のポリスからの援軍と共にこれを迎え撃ち、撃退することに成功しました。ちなみに、マラトンの戦いの勝利をアテネに知らせるため、青年が、マラトンとアテネの間の約49kmを走り抜き、勝利を伝えて息絶えたという逸話があります。

スパルタ王レオニダス

この話がマラソン(長距離走競技)の語源になったと言われています。しかし、この話は事実ではないそうです。第3次ペルシア戦争では、BC480年、ペルシア大王クセルクセス1世(ダレイオス1世の子)がペルシア軍を率いてギリシア本土に侵攻しました。この戦いは一連のペルシア戦争の最大の山場でした。このとき、テルモピュライの戦いが行われました。クセルクセス1世は、スパルタ王レオニダスが率いるギリシア連合軍を破ってアテネに攻め込みました。

アテネは陥落しましたが、テミストクレス(アテネの政治家・軍人)が、アテネ海軍を指揮してサラミスの海戦でペルシア艦隊を打ち破って勝利しました。その結果、クセルクセス1世は引き揚げ、ペルシア軍はギリシア北部に撤退しました。第4次ペルシア戦争では、BC479年、ペルシア軍は、ギリシア北部から南下して再びアテネに向けて進軍しました。これに対してアテネとスパルタの連合軍はプラタイアの平原で迎え撃ちました。

ここで連合軍はペルシア軍の進攻を食い止めました。また、ミュカレの海戦においてはペルシア艦隊が敗北して壊滅しました。このため、ペルシア軍によるギリシアへの侵攻は失敗しました。その後も、両軍の間では小規模な戦いが続きましたが、BC449年に至り、ペルシアとアテネがカリアスの和約を締結して、ペルシアとギリシアの諸ポリスとの戦争は完全に終結しました。

歴史上のテルモピュライの戦い

BC480年、ペルシア大王クセルクセスはおよそ20万の兵力を率いてギリシアの北部から侵攻を開始しました。これに対し、ギリシアのポリス連合は、大軍を迎え撃つため、ギリシア中部に位置するカリモドロス山とマリアコス湾に挟まれたティルモピュライという狭隘な土地で、地の利を活かして待ち構えていました。しかし、そのポリス連合軍の中心的存在であったスパルタでは、宗教行事のカルネイア祭の最中であったため、戦争は禁止されていました。

そのため、スパルタ王レオニダスは、全軍を召集できず、選抜した戦士と共に300人で出陣しました。その300人は、後を継がせる子供がいる男から選抜されました。また、ギリシアでは古代オリンピック競技会が開催されていたため、他のポリスでも戦争は禁止されていました。すなわち、出陣できる兵力は限られていました。その総兵力は7,000人ほどでした。そして、クセルクセス大王は、少数のギリシア連合軍がペルシアの大軍を目の当たりにして撤退するものと考えました。

しかし、ギリシア連合軍は撤退することはありませんでした。両軍の戦いはペルシア軍の突撃によって開始されましたが、ギリシア連合軍が狭い隘路で待ち構えていたため、ペルシア軍は、大軍の利点を活かせず、取り囲んで殲滅するような戦いはできませんでした。一方、ギリシア連合軍は、正面から突撃してきたペルシア軍をファランクスの陣形で押しとどめ、次々と槍で刺し殺しました。これに対し、クセルクセス大王は不死隊と呼ばれた精鋭部隊を投入しましたが、突破することはできませんでした。

スパルタ王レオニダスの銅像

特に、レオニダス王が率いるスパルタ軍は目覚ましい活躍を見せました。スパルタ軍は、ペルシア軍に向かっていき、近づいたところで敗走するかのごとく後退しました。それを見たペルシア軍は、スパルタ軍が逃げるものと考え、その背後に突撃して追い迫りました。しかし、スパルタ軍は、ペルシア軍が追いつくところで、踵を返してファランクスの陣形で組み、ペルシア軍を押しとどめ、槍で突き倒しました。この戦術によって、誘い出された多くのペルシア軍の兵士が倒されました。

両軍の戦いは3日間にわたりました。2日間は、ギリシア連合軍が狭隘な地形を利用して多くのペルシア軍の兵士を撃退しました。そして、このようなギリシア連合軍の奮戦によって、ペルシア軍の進軍を阻止することに成功しました。しかし、3日目には、クセルクセス大王は、地元民の話からギリシア連合軍の背後に至る回り道があることを知りました。一方、ギリシア連合軍も、この回り道の存在は知っていたため、連合軍のうちポキス(ギリシア西部のコリントス湾側の地域)軍をこの回り道の守備に当てていました。

しかし、ポキス軍は、回り道を進むペルシア軍に気づきながら、攻撃することなく撤退してしまいました。そのため、ギリシア連合軍は、背後と正面から挟み撃ちになることが確実となりました。そこで、ギリシア連合軍は、一部の軍を残して撤退することを決定しました。残された兵力は、スパルタの戦士300人と他のポリス(テスピアイのおよそ700人とテーバイのおよそ400人)の軍を合わせて、およそ1,400人でした。絶対的な優位に立ったクセルクセス大王は、ギリシア連合軍の指揮官となっていたレオニダス王に対して、武器を捨てて降伏することを要求しました。

しかし、レオニダス王は、「来たりて取れ」と返答して徹底抗戦の構えを示しました。スパルタ兵の強さを恐れたクセルクセス大王は、白兵戦(刀剣を使って戦う近接戦)によってペルシア軍の損害が増えるのを避けるため、弓矢によって攻撃を行いました。すなわち、テーバイの軍は降伏したため、レオニダス王が率いるスパルタとテスピアイの軍に対して、数え切れないほどの矢が射られました。そして、レオニダス王とその戦士たちの頭上には雨のように矢が降り注ぎました。ついに、最後の抵抗を試みるレオニダス王と戦士たちは矢を防ぎきれず、全滅しました。

コメント

タイトルとURLをコピーしました