海洋帝国の礎を築いた女王【エリザベス1世】についてわかりやすく解説!

当サイトは、アフィリエイト広告を利用しています。

歴史・文化・自然

エリザベス1世の生い立ち

1533年、エリザベスは、イングランド国王(後のイングランドとアイルランドの連合王国を統治する国王)のヘンリ8世とアン・ブーリンの間に生まれました。父のヘンリ8世は生涯で6度結婚をしました。アン・ブーリンは2番目の妻でした。

しかし、母のアン・ブーリンは、ヘンリ8世によって姦通罪の罪で処刑され、エリザベスは王位継承権を奪われました。その時、エリザベスはわずか2歳でした。その後、ヘンリ8世は、次々と妻を変えましたが、授かった子供は3人(メアリ1世、エリザベス1世、エドワード6世)でした。

ヘンリ8世

ヘンリ8世は、最初の妻と離婚するため、離婚を禁止するローマ教会(カトリック)と

対立したんだ。そして、国王を教会の首長とする国教会をつくり、

離婚できるようにしたんだよ。そのため、ローマ教皇から破門されたけどね!

1543年、エリザベスの王位継承権は復活されました。1547年、ヘンリ8世が亡くなったため、男子継承者のエドワードがエドワード6世として王位につきました。しかし、1553年、エドワード6世が若くして亡くなると、メアリが女王として即位しました。

メアリ1世

メアリ1世は、カトリックの復興を進め、プロテスタントを迫害しました。また、母親の違う妹の存在が自らの地位を脅かすことを憂慮しました。そして、1554年、メアリ1世は、プロテスタント信仰を復活させようとしたトマス・ワイアットの反乱に関与した罪で、エリザベスをロンドン塔に幽閉しました。

しかし、エリザベスは関与を否定しました。最終的にその関与は立証されず、エリザベスは釈放されました。1558年、メアリ1世が病気で亡くなりました。そして、エリザベスが、エリザベス1世として女王に即位しました。その時、エリザベス1世は25歳でした。

女王としてのエリザベス1世

エリザベス1世は、細身で白粉を塗った無表情の顔という姿が特徴的です。エリザベス1世は、女王に即位する前、王位継承権などの争いに巻き込まれるのを避けるため、学問に没頭したと言われています。

そのため、エリザベス1世は、フランス語やイタリア語などの外国語に堪能で、聡明な現実主義者でした。また、エリザベス1世には、スペイン王のフェリペ2世をはじめ、各国の王族から結婚の申し込みがありました。

それは、いわゆる政略結婚と言われるものでした。しかし、エリザベス1世は、イングランド(アイルランドを含む)が王位継承権の争いや他国の内政干渉に巻き込まれるのを避けるため、これらの求婚を断りました。

これを象徴するものとして、エリザベス1世が、結婚について問われたとき、「私はすでにイングランドと結婚している」と答えたという話があります。エリザベス1世は、生涯結婚しなかったため、「バージン・クイーン(処女王)」とも呼ばれました。

エリザベス1世はバージン・クイーンと呼ばれたけど、

寵臣のロバート・ダドリー卿などの愛人はいたんだよ。

エリザベス1世は、愛人の浮気に嫉妬したり、激怒したりして、

恋にもいそしんでいたんだ!

また、エリザベス1世は、有能な人材を枢密院の構成員として登用しました。そして、その治世においては、枢密院が、政策を決定する機関として、重要な役割を担いました。

そして、エリザベス1世は、重要な政策については議会の決定を尊重しました。それを表す言葉として、エリザベス1世は、「私は見る、そして語らない」と述べていました。

さらに、エリザベス1世は、有能な人材を重臣などに任命して重用しました。その最たるものは、海賊を海軍の大幹部に登用して、スペインの無敵艦隊との戦いにおいては、その能力を存分に発揮させることに成功しました。

エリザベス1世の宗教改革

メアリ1世は、カトリックの復興を推し進め、プロテスタントを弾圧しました。しかし、王位を継いだエリザベス1世は、カトリック信者としてローマ教会に属することを避け、イングランドを宗教的に独立させるため、国教会を復活させました。

すなわち、エリザベス1世は、1559年に首長法(国王至上法)を再び制定して、女王が教会の首長となりました。そして、国教会の儀式や教義について、国内のカトリック信者やプロテスタント信者の両方の反感を抑えるため、それぞれの特徴を取り入れて、中道的なものにしました。

その後も、エリザベス1世は、国教会を強化する政策を推し進め、宗教改革を完成させました。そのため、1570年には、エリザベス1世はローマ教皇から破門されてしまいました。

エリザベス1世の国内政策

ヘンリ8世は、貨幣(ポンド)の質を下げたため、イングランド国内では、急激なインフレが生じていました。そして、ポンドの価値が下落した結果、貿易にも支障が生じました。

そのため、エリザベス1世は、「悪貨は良貨を駆逐する」という言葉で有名な王室金融代理人トーマス・グレシャムの提言を受けて、ポンド銀貨の質を上げました。その結果、ポンドは信用を取り戻し、国内経済を立て直すことに成功しました。

また、1600年には、インドの西側のアジアで貿易を独占するため、エリザベス1世の特許を得て、ロンドンの商人が東インド会社を設立しました。さらに、アメリカ大陸にも進出しました。エリザベス1世は、毛織物の海外貿易を盛んにして、重商主義政策を推し進めました。

そのため、海外市場は拡大して、毛織物の需要は益々増大しました。そして、その値段も上昇しました。その結果、領主や富裕層は、農地を囲い込み、牧羊地に転換しました。耕作地を奪われた農民は離農して、工場制手工業の賃金労働者になっていきました。

しかし、囲い込みによって、街には離農した者があふれたため、失業や犯罪などの問題が多く生じました。エリザベス1世は、この社会不安を解消するため、1601年、救貧法を制定して、社会的弱者を救う措置を取りました。

耕作地を失い、賃金労働者となっていった多くの人たちは、

後にイギリスで起こった産業革命においては、需要が増大した

労働の担い手としての役割も果たすことになったんだ!

また、社会的弱者を救うための救貧法は、その後、

イギリスで進められる社会福祉制度の原点になったんだ!

エリザベス1世の対外政策

当時、ヨーロッパにおける大国はスペインでした。スペイン国王フェリペ2世は、カトリックによる国家統合を目指していたため、カトリックを保護して、ほかの宗派を弾圧していました。

1554年、フェリペ2世は、王太子のとき、イングランド女王のメアリ1世と結婚しました。1558年にメアリ1世が亡くなると、フェリペ2世は、エリザベス1世に結婚を申し込みましたが、断られました。

メアリ1世は、カトリックの復興を推し進めましたが、エリザベス1世は、イングランド国教会の強化を推し進めました。そのため、スペインとの火種が生まれました。

また、エリザベス1世は海外貿易を推進しましたが、競合するスペインとは軋轢が深まりました。さらに、エリザベス1世の公認のもと、フランシス・ドレーク(【イングランドの海賊王ドレーク】で詳しく解説)は、私掠船(しりゃくせん)の船長として、西インド諸島においてスペイン船を襲うなどの海賊行為を行っていました。

私掠船とは、敵国の船を襲撃して略奪することを認められた民間の船のことです。1577~1580年、ドレークは、エリザベス女王の支援を受けて、世界一周を果たしました。ドレークは、チリやペルーの沿岸を航海する際には、スペインの船や植民地を襲い、莫大な金銀財宝を略奪しました。その結果、フェリペ2世は激怒しました。

また、1585年、エリザベス1世は、スペインが支配していたネーデルラント(オランダ)で、オランダ人の反乱を支援するため、軍事援助を約束するノンサッチ条約を締結しました。そして、エリザベス1世はネーデルラントにイングランド軍を派兵しました。フェリペ2世は、これを宣戦布告と見なしました。

さらに、スコットランド女王のメアリ・スチュワートが、内紛によってその地位を追われ、イングランドに亡命しました。エリザベス1世はそれを受け入れました。しかし、1586年、イングランドのカトリック教徒と共謀して、エリザベス1世の暗殺を企てました。

その企ては失敗しました。そして、1587年、メアリは死刑に処せられました。一方、フェリペ2世は、メアリがイングランドの女王になって、イングランドのカトリックを復活させることを望んでいましたので、この処刑に激怒しました。

このような流れの中で、1588年、フェリペ2世は、無敵艦隊と呼ばれたスペイン艦隊を派遣して、イングランドに軍を上陸させ、ロンドンを占領することを計画しました。これに対して、エリザベス1世は、海賊ドレークをイングランド艦隊の副司令官に任命して、対抗しました。

エリザベス1世は、スペインとの戦いに際し、「確かに、私はか弱く華奢な女のからだです。しかし、イングランド王としての胆力と勇気をも持っているのです。」と言って、兵士を鼓舞しました。そして、エリザベス1世はこの戦い(【無敵艦隊】で詳しく解説)に勝利しました。その後、イングランドは海洋帝国へと発展していきます。

エリザベス1世の時代の終わり

エリザベス1世は、イングランドの黄金時代を築いたと言われています。一方で、1590年代になると、エリザベス1世が信頼を置く重臣たちが亡くなっていきました。そして、宗教対立、アイルランドの反乱、独占権による物価高騰などの問題が生じました。

そして、エリザベス1世の人気も徐々に衰えていきました。そのよう中で、1603年2月、エリザベス1世の親友であるノッティンガム伯爵夫人キャサリン・ハワードが亡くなりました。親友を失ったエリザベス1世は、心身ともに急速に衰え始めました。同年3月、エリザベス1世は69歳でこの世を去りました。

エリザベス1世は、その後継者として、死刑に処したメアリ・スチュワートの子であるスコットランド王ジェームズ6世を指名しました。これにより、テューダー朝によるイングランド王位継承は断絶して、新しくスチュアート朝が成立しました。

ジェームズ6世は、イングランド王ジェームズ1世を兼ねたので、

イングランド、アイルランド、スコットランドは、

同じ君主が治める同君連合になったんだ!




コメント

タイトルとURLをコピーしました