経済学者ケインズについて前編と後編に分けて解説します。前編では「ケインズと経済学理論」と「略歴と時代背景(1883年~1929年)」について解説します。後編では「略歴と時代背景(1929年~1946年)」について解説します。
ケインズと経済学理論
ジョン・メイナード・ケインズ(John Maynard Keynes)はイギリスの経済学者です。ケインズは第一次世界大戦、世界恐慌、第二次世界大戦という激動の時代を過ごしました。特に、1929年、ニューヨークのウォール街で株式市場の大暴落が起きたため、多くの企業が倒産して失業者が街にあふれました。そして、これが世界恐慌として世界中に不況の嵐をもたらしました。この出来事は、ケインズが自由放任主義に疑問を呈するきっかけとなりました。

すなわち、経済学の父と呼ばれたアダム・スミス(1723年~1790年)は、国家が介入しない自由な経済活動が国を豊かにすると唱えました。しかし、世界恐慌によってこの考え方は崩れ去りました。そのため、ケインズは、このような不況が起こる原因を分析して、それに対処する国家(政府)の役割について論じました。そして、その考え方は、現代の経済学(マクロ経済学: 政府、企業、家計をひとくくりにして、国の経済全体の動きを理解する学問)に大きな影響を与えています。1936年、ケインズは、「雇用、利子および貨幣の一般理論」という経済学の歴史に残る書物を著しました。
この書物の中で、ケインズは失業の原因が「有効需要」の不足にあると説明しています。すなわち、生産物に対する需要(消費と投資)が不足しているため、失業が起こると唱えました。そのため、政府が有効需要をつくり出すことによって、景気の回復と雇用の創出を図ることができると主張しました。ケインズは多くの論文や書物を著しました。特に、「貨幣改革論」「貨幣論」「雇用、利子および貨幣の一般理論」の3つの学術書はケインズの3部作と呼ばれています。これらの著書によってケインズ経済学の理論が示されています。
略歴と時代背景(1883年~1929年)
1883年、ケインズはイギリスのケンブリッジで生まれました。父は、ジョン・ネヴィル・ケインズというケンブリッジ大学の講師で、経済学などを教えていました。1897年、ケインズは、富裕層の子息が通う名門エリート校のイートン(日本の中学から高校までに相当する全寮制の男子校)に入学しました。そこでは、スポーツに熱中しながらも数学が得意な生徒でした。1902年、ケインズはイートン校を卒業してケンブリッジ大学のキングス・カレッジに入学しました。大学では数学を専攻していました。すなわち、ケインズはエリートコースを歩む秀才の学生でした。

ケンブリッジ大学では、経済学の教授であったアルフレッド・マーシャルの教えを受けました。アルフレッド・マーシャルは、ケンブリッジ学派の創始者で、アダム・スミスの自由競争市場を基本的に継承している新古典派経済学の学者でした。1905年、ケインズはケンブリッジ大学を卒業しました。1906年、高級官僚を志して高等文官試験を受けました。そして、2番の成績で合格してインド省に入りました。しかし、2年後の1908年には、ケンブリッジ大学(キングス・カレッジ)の恩師マーシャル教授の誘いで、ケインズは、インド省を退職してキングス・カレッジの経済学講師になりました。

ウィキペディア(Wikipedia)から引用
1909年、ケインズはキングス・カレッジのフェロー(研究員)の資格を取りました。1911年、ケインズは、エコノミック・ジャーナルというイギリスの有名な学術雑誌の編集者になりました。そして、晩年までこの地位にとどまりました。1913年、ケインズは、インド省での経験を踏まえて、処女作の「インドの通貨と金融」を出版しました。本書では、インドの貨幣、金融、為替の実態について説明するとともに、金為替本位制度の必要性を唱えました。1914年、第一次世界大戦が勃発しました。1917年、ロシア帝国では革命が起きて帝政ロシアが崩壊しました。また、アメリカがドイツに宣戦布告して第一次世界大戦に参戦しました。
1918年、第一次世界大戦は連合国の勝利で休戦しました。1919年、フランスのパリで第一次世界大戦の講和会議が開催されました。この会議には32か国が参加しましたが、会議はアメリカ、イギリス、フランスの3国が中心となって進められました。なお、ドイツとソビエト(ロシア)の参加は認められませんでした。このパリ講和会議の合意内容は、会議の参加国とドイツとの間で締結されたヴェルサイユ条約に盛り込まれました。これにより第一次世界大戦は終結しました。この条約によって、ドイツは、領土の一部と海外の植民地の全てを失うとともに、巨額の賠償金が課されるなどの厳しい制裁が加えられました。
そして、これが、ドイツ国民の大きな反発を招くことになりました。すなわち、後の第二次世界大戦を引き起こす遠因になりました。一方、ケインズは、1915年に財務省で金融問題を扱うポストに就きました。1919年、ケインズは、イギリスの財務省首席代表としてパリ講和会議に参加しました。しかし、ケインズは、ドイツに対する過大な賠償金が非現実的であったため、これに強く反対して財務省を辞めました。そして、ケインズは、キングス・カレッジの経済学の講師に戻りました。また、この賠償問題を批判した「平和の経済的帰結」を出版しました。

ウィキペディア(Wikipedia)から引用
本書では、過大な賠償金が、戦争で疲弊したドイツ経済を崩壊させること、その結果、ヨーロッパの経済を不安定化させるとともに、将来において戦争を引き起こす原因にもなることが説かれていました。また、この本がベストセラーになったため、ケインズは多額の収入を得ることができました。ケインズは、それを資金に投資を本格的に始めました。その後、投資家としても成功していきました。また、ケインズは、ジャーナリストとして多くの論説などを学術雑誌などに載せていました。1921年には「確率論」を発表しました。ケインズの確率論は、計算によって求める考え方(確率=それが起こる場合の数÷全体の場合の数)ではなく、論理的な言説による考え方でした。
すなわち、新しい証拠を獲得すると、推論の重みは増えますが、推論の確率は下がる可能性があると説いています。つまり、重みだけは常に増えていきます。そして、重みの増加は確率の信頼度に関係するため、仮に確率が下がる場合でも、その信頼度は高まることになると説いています。また、この頃、ケインズは、保険会社の取締役などを務めるとともに、経済学者としての知識を活かして積極的に株式投資を行ったり、その方法を提唱したりしていました。そして、ケインズの投資理論が話題となりました。1923年には「貨幣改革論」を刊行しました。

貨幣改革論は、序文、第1章「貨幣の価値変動が社会に与える影響」、第2章「公共財政と貨幣の価値変化」、第3章「貨幣の理論と為替レートの理論」、第4章「様々な通貨政策目標の比較」、第5章「将来的な貨幣の管理についての建設的提言」から構成されています。本書では、最も必要なことは通貨分野のイノベーションであると述べています。すなわち、銀行業界が、事実の明確な分析に基づいて通貨問題を科学的に取り扱うことが必要であると唱えました。また、第一次世界大戦前の水準で金本位制に復帰するべきでないと論じています。
1925年、ケインズは、財務大臣のウィンストン・チャーチルによる旧平価(第一次世界大戦前の金本位制におけるポンドの為替レートのことで、1ポンド=4.86米ドル)での金本位制への復帰に反対して、「チャーチル氏の経済的帰結」を発表しました。すなわち、イギリスは第一次世界大戦中にインフレーションを経験しました。そのため、旧平価での復帰がイギリスの輸出品の価格を上げることになると説いています。その結果、石炭産業や鉄鋼業などの主要な輸出産業が縮小して雇用の喪失や賃金の低下などをもたらすことになると批判しました。
1924年、ケインズはキングス・カレッジの会計処理の責任者として正会計官に就任しました。1926年、「自由放任の終焉」を発表しました。この論説で、ケインズは失業や分配の不平等を引き起こす要因は、危険、不確実性、無知にあると説きました。そして、政府がなすべきことと政府がなすべきでないことを明確に区別し直すことが、経済学者の課題であると主張しました。すなわち、ケインズは、これらの経済問題を解決するためには、市場での自由な調整だけに任せるのではなく、政府が行うべき役割を果たさなければならないと論じました。
1929年、ケインズは、「ロイド・ジョージはそれをなしうるか(ヘンダーソンとの共著)‐公約を検討する」を発表しました。同年のイギリスの総選挙において、自由党の党首ロイド・ジョージは、失業者が増えていたため、国家開発計画(公共投資)という大規模な公共事業による雇用の創出と経済の再建を公約しました。この論説において、ケインズらは、自由党の開発計画を支持して効果的で実現可能であると論じました。その後、ケインズは、積極的な財政政策による公共事業が経済の活性化や失業問題の解決に有効であることを主張していきました。









コメント