ローマ帝国の初代皇帝アウグストゥスについて前編と後編に分けて解説します。前編では「オクタウィウス(アウグストゥス)の生い立ち」「第2回三頭政治による支配」「第2回三頭政治の崩壊」について解説します。後編では「アントニウスとの決戦」「初代皇帝への道」「アウグストゥスの後継者」について解説します。
オクタウィウス(アウグストゥス)の生い立ち
BC(紀元前)63年、ガイウス・オクタウィウス・トゥリヌス(Gaius・Octavius・Thurinus)は古代ローマ南東のウェリトラエ(現ヴェッレトリ)で生まれました。母アティア(カエサルの妹の子)はガイウス・ユリウス・カエサル(Gaius・Julius・Caesar)の姪でした。ちなみに、Julius・Caesarは英語読みではジュリアス・シーザーになります。しかし、4歳の時に父が亡くなりました。そして、母が再婚したため、祖母ユリア(カエサルの妹)に引き取られて成長しました。12歳の頃、祖母が亡くなったため、母の再婚先に引き取られて成長しました。
BC49年、大叔父カエサルは、ガリア遠征を勝利で終えてローマに帰還するとき、元老院による軍団解散命令を無視してルビコン川を渡りました。ローマに進軍したカエサルは、歴戦の勇士で反カエサル派のポンペイウスや元老院保守派との戦いに突入しましたが、その内戦に勝利して、英雄となりました。そして、カエサルは、BC46年に独裁官となって権力を掌握しました。この頃、カエサルは、軍事の才能に秀でたアグリッパという青年をオクタウィウスに引き合わせました。この青年は、後に生涯に渡って腹心としてオクタウィウスを支えることになります。


当時、ヨーロッパはアルプスを挟んで南側の北イタリア地域をガリア・キサルピナと呼び、北側をガリア・トランサルピナと呼んでいたんだよ!そして、BC58年、カエサルは、ローマの属州ガリア・キサルピナの総監として、軍団を率いてガリア・トランサルピナの遠征を開始したんだ!遠征先では、反抗する各部族を次々に制圧しながら、東はゲルマン人を追ってライン川を渡り、ゲルマニア(現ドイツ)に進軍したんだ!そして、西ではドーバー海峡を渡ってブルタニア(現イギリス)に侵攻したんだよ!
カエサルは、遠征を勝利で終えて軍団とともにローマに凱旋するため、ルビコン川を渡ったんだ!これが歴史に新たなページを刻むことになるんだよ!すなわち、ローマの法では総監が軍団を率いてローマ本国に入ることを固く禁止していたんだ!ルビコン川は属州ガリア・キサルピナとローマ本国との境界であったため、カエサルが、軍団を率いてルビコン川を渡れば、死罪などの重い刑罰を受けることになるんだ!つまり、その川を渡れば、カエサルは、ローマ本国に反逆したことになるんだ!そのため、ローマ本国の反カエサル派との内戦に勝利するしか選択肢はなかったんだ!
BC44年、カエサルは、独裁官(ディクタトル: 執政官によって有事に選出される任期半年以内の最高権力者)から終身独裁官になりましたが、共和制を支持する元老院議員らによって暗殺されてしまいました。ちなみに、執政官(コンスル)とは、ローマの共和政において1年任期で毎年2名が選出される軍事や行政などを司る最高権力者ことです。カエサルの遺言が公開されると、オクタウィウスが養子としてカエサルの後継者に指名されていたことが明らかになりました。このとき、オクタウィウスは、重要な要職にも就いておらず、病弱で小柄(170センチメートルくらい)な無名の青年でした。
第2回三頭政治による支配
カエサルが暗殺されたことを聞いたオクタウィウスは、ただちに留学先のギリシアからローマに戻りました。このとき、カエサルの有力な部将であったアントニウスが執政官を務めていました。そして、アントニウスは、葬儀を取り仕切って、カエサルの遺産と軍団を一方的に引き継いで後継者を自任していました。一方、オクタウィウスは、当時、アントニウスと対立していた有力な弁護士キケロや元老院議員らの支持を取り付けることに成功しました。BC43年、オクタウィウスはカエサルの後継者として認められました。そして、ガイウス・ユリウス・カエサル・オクタウィアヌスとして元老院議員と執政官に就任しました。

こうして、オクタウィアヌスは、元老院派とともにアントニウスと戦うことになりました。この戦いではアントニウスが敗北しました。そのため、アントニウスは、オクタウィアヌスが元老院の支持を得て単独で実権を握ることを避けるため、同じくカエサルの部将でもあった最高神祇官(公式な宗教行事を司る全ての神官の長)のレピドゥスの仲介を得て、オクタウィアヌスと和解しました。そして、3者は同盟を結んで国家再建三人委員会を設立しました。これにより、第2回三頭政治という支配体制が成立しました。さらに、この委員会は元老院によって法的に認められました。その結果、3人には広範囲な統治権限が与えられました。

第1回三頭政治は、BC60年、元老院に対抗するため、カエサル、ポンペイウス、クラッススという3人の有力者によって非公式に成立したんだよ!このとき、カエサルはローマの政治家として台頭していたんだ!そして、ポンペイウスは軍人として活躍していたんだ!たとえば、地中海の海賊を討伐したり、ローマと対立したポントス王のミトリダデスを破ったり、小アジアなどを征服したりしたんだよ!
また、クラッススはローマの富豪でスパルタクスの反乱を鎮圧して名をあげたんだ!BC53年、クラッススが戦死したため、三頭政治の一角が崩れ、BC49年、カエサルは、ルビコン川を渡ってローマに進軍したため、反カエサル派のポンペイウスや元老院保守派と戦うことになったんだ!BC48年、ポンペイウスは戦いに敗れてエジプトに逃れたが、暗殺されたため、カエサルが勝利してローマの実権を手にしたんだよ!
そして、プロスクリプティオ(追放令)が発動されました。これにより、反カエサル派と見なされた多くの反対勢力(元老院議員や新興富裕層の騎士階級)が排除されました。このとき、アントニウスの要請によって有力者のキケロも処刑されました。カエサルを暗殺した首謀者であったブルータスとカッシウスは、ローマを脱出してマケドニアに逃れました。BC42年、マケドニアのフィリッピで、オクタウィアヌスとアントニウスのカエサル派連合軍は、ブルータスらの共和派が編制した軍団と激突しました。その結果、アントニウスの巧みな戦術によって連合軍が勝利しました。

ブルータスは自刃して共和派が壊滅したため、三頭政治による支配が確立されました。BC40年、ブリンディシ協定が結ばれて、ローマの勢力範囲が3人によって分割されました。すなわち、オクタウィアヌスはイタリア半島を含む西方(西地中海地域や西ヨーロッパ)の属州を、アントニウスは東方(東地中海地域や西アジア)の属州を、レピドゥスはエジプトを除く北アフリカの属州を統治することになりました。そして、オクタウィアヌスとアントニウスとの関係を強化するため、オクタウィア(オクタウィアヌスの姉)がアントニウスと結婚しました。
第2回三頭政治の崩壊
しかし、この3人による支配体制はやがて崩れ始めました。すなわち、エジプトのクレオパトラ女王は、カエサルの愛人となることで、カエサルを自らの地位とエジプトの独立を守る後ろ盾としていました。そして、カエサルとの間には男子をもうけていました。その子はカエサリオン(小カエサル)と呼ばれていました。そのため、カエサルを失ったクレオパトラ女王は、新たな後ろ盾を必要としました。クレオパトラ女王は、カエサルに代わるローマの実力者はアントニウスになると考えて、その触手をアントニウスに伸ばして誘惑しました。BC37年、アントニウスは、妻(オクタウィア)がいましたが、クレオパトラの魅力に引き込まれて結婚しました。

ローマの英雄カエサルとその後継者を自任する有力部将アントニウスを虜にした絶世の美女クレオパトラについて簡単に解説するね!アレキサンダー大王(アレクサンドロス3世、BC356~323年)が32歳の若さで亡くなった後、その大帝国では、有力部将たちによる後継者争いが起こったんだ!そして、最終的には、マケドニア・ギリシアのアンティゴノス朝、シリア地域のセレウコス朝、エジプトのプトレマイオス朝という3つの国に分裂したんだ!すなわち、これらの王朝を築いたのは、アレキサンダー大王の配下にいたギリシア系の将軍たちなんだ!

そして、プトレマイオス朝のエジプトでは、ギリシア系のマケドニア人が支配層を占めていたんだよ!アレクサンドリアを都としたエジプトのプトレマイオス朝は、ヘレニズム文明の中心地として3国の中で最も栄えたんだ!でも、次第にエジプトのファラオ(古代エジプトの王朝)の後継者として神権的な統治を行っていったんだ!ちなみに、ヘレニズム文明とは、アレキサンダー大王の東方遠征によって、ギリシア文明がペルシアなどの東方の文明と融合して生まれた文明のことだよ!つまり、エジプトのクレオパトラ女王はギリシア系の美人だったんだ!

そして、アントニウスはクレオパトラとの間に3人の子をもうけました。このような振る舞いは、オクタウィアヌスとアントニウスとの関係を悪化させました。アントニウスと対立するようになったオクタウィアヌスにとっては、アントニウスとの間を取り持ったレピドゥスの存在価値も薄れました。そのため、オクタウィアヌスはレピドゥスを軽視するようになりました。BC36年、レピドゥスは、自らの立場を挽回しようとして、オクタウィアヌスとともにポンペイウスの遺児セクストゥスを討伐するための戦いに参加しました。そこで、レピドゥスは、陸上戦で勝利したため、その勢いに乗って優位な立場を得るべくオクタウィアヌスと対決しました。
しかし、その企みは失敗して失脚しました。これにより、第2回三頭政治は事実上解消しました。一方、アントニウスは、ローマを離れてエジプトのアレクサンドリアでクレオパトラと過ごしていました。そして、BC34年、アントニウスはアルメニアを征服しましたが、ローマではなく、アレクサンドリアで凱旋式を行いました。また、アントニウスは獲得した東方の属州をクレオパトラに譲り渡すことを宣言しました。これに対してローマの元老院は強く反発しました。アントニウスがクレオパトラにローマの属州を一方的に割譲することは、ローマ本国に対する反逆にも値しました。BC32年には、アントニウスは妻のオクタウィアと離婚しました。

これらの行為は、アントニウスとの関係を絶ってエジプトのプトレマイオス朝を倒すための大義名分をオクタウィアヌスに与えることになりました。BC32年、オクタウィアヌスは、アントニウスとの戦いをローマの敵国となったエジプト(プトレマイオス朝)を倒すための戦いにすり替えることに成功しました。そして、元老院はエジプトに対し宣戦布告しました。BC31年、オクタウィアヌスは、再び執政官に就任してエジプトとの戦いに向けて出陣しました。これに対するエジプト側は、オクタウィアヌスの思惑通り、アントニウス軍とクレオパトラ軍の連合軍でした。これにより、オクタウィアヌスとアントニウスは敵対関係となったため、第2回三頭政治は完全に崩壊しました。





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