地動説の歴史について3部に分けて解説します。第1部では、古代の天動説と地動説とニコラウス・コペルニクスの地動説について解説します。第2部では、ジョルダーノ・ブルーノとガリレオ・ガリレイの地動説について解説します。第3部では、ヨハネス・ケプラーとアイザック・ニュートンの地動説について解説します。
ジョルダーノ・ブルーノの地動説
ジョルダーノ・ブルーノ(1548年~1600年)は、1548年、イタリアのナポリ近郊のノーラで生まれました。1565年、17歳のときにナポリのドミニコ会の修道院に入りました。そして、キリスト教の教義やスコラ哲学などを学びました。ブルーノは、記憶力に優れ、知的好奇心が高く、神秘的又は魔術的な思想に強い関心を寄せました。一方で、修道院での教えに疑問を抱いて異を唱えたり、奇行に走ったりしたため、異端の嫌疑をかけられました。そのため、1576年、28歳のときに修道院を脱出してナポリを離れました。

その後、ブルーノはヨーロッパ各地を放浪しながら、大学や宮廷などでコペルニクスの地動説に基づく無限宇宙論を唱えました。1581年~1583年、ブルーノはフランスのパリで過ごしました。そこでは、ブルーノの記憶力の才能が国王アンリ3世の目に留まったため、宮廷で注目を集めました。1583年、ブルーノは、フランス大使と共にイギリス(イングランド)へ渡り、ロンドンに滞在しました。オックスフォード大学では、コペルニクスの地動説を擁護して独特の宇宙観を説明しました。しかし、天動説に執着する大学教授らから猛反発を受けることになりました。
これに対して、1584年、ブルーノは「灰の水曜日の晩餐」という書物を執筆しました。その中で、ブルーノは、大学教授らの無知を揶揄しながら、宇宙の無限性を説きました。それは次のような内容でした。地球は宇宙の中心ではない。また、太陽も宇宙の中心ではない。宇宙は無数の宇宙によって成り立っている。神はこの無限の宇宙の中にある。そして、すべてのものは相対的で変化している。さらに、ブルーノは、「無限、宇宙、諸世界について」という対話篇においても、自らの宇宙無限論を展開しました。

すなわち、宇宙には、無数の自転している太陽があって、その周りを惑星が回転していると説きました。ブルーノの考えは、天文学的観測に基づくものではなく、形而上学に基づくものでした。それは、神は無限の力を有するため、神が創り上げた宇宙が有限なものであるはずがないという哲学に基づくものでした。1585年、ブルーノはパリに戻りましたが、そこでも強い反発を買ったため、中央ヨーロッパ各地を旅することになりました。1591年、ブルーノは、ベネチア(ベニス)の貴族の招きに応じて久しぶりにイタリアに戻りました。
しかし、その貴族は、ブルーノの過激な思想を恐れたため、裏切って異端審問所(カトリック教会が正統な教義に反した者を審問して裁く法廷)にブルーノを告発しました。そのため、ブルーノは逮捕されました。1593年、ブルーノは、ローマで牢獄に入れられましたが、7年に渡る裁判の間、自らの信念を貫き、「撤回すべきこともないし、撤回することもない」と主張し続けました。その結果、1600年、ブルーノは火刑に処せられて52歳の生涯を閉じました。判決の際には、「判決を言い渡すあなた方が、それを受ける私よりも、真理に対して大きな恐怖を感じているのであろう」と言ったそうです。
ガリレオ・ガリレイの地動説
1564年、天文学者、物理学者のガリレオ・ガリレイ(1564年~1642年)はトスカーナ大公国(現在のイタリア中西部)で生まれました。ガリレオはトスカーナの旧家出身でした。1574年、ガリレイ家はフィレンツェに移住しました。1581年、ガリレオは、父親の希望でピサ大学に入学して医学を学びましたが、数学と物理に興味が移りました。1585年には大学を途中で辞めて研究に没頭しました。そして、1589年、3年の任期でピサ大学の数学講師になりました。1592年、ガリレオはベネチア共和国でパドヴァ大学の数学教授に就任しました。パドヴァ大学では、運動学の研究や実験を熱心に行いました。そして、運動の諸法則を発見して証明しました。

ガリレオは次のような運動の法則を発見して証明したんだよ!すなわち、① 物体は、外部から力を加えなければ、静止状態を続け、動いている物体は、力を加えなければ、一定の速度で永久に直線運動を続けること(慣性の法則)、② 物体の落下速度は、物体の重さに関係なく時間に比例すること、③ 物体の落下距離は時間の2乗に比例すること。そのために、ガリレオは様々な実験を行ったんだ!たとえば、天井から吊り下げられているランプが風で揺れているところを見ながら、自分の心拍数でその周期が一定であることを確かめたんだよ!
すなわち、振り子は、重さではなく、ひもの長さによって周期に差が出ることを証明したんだ!また、斜面を転がる球の運動を利用して、物体が落ちる距離と時間の関係を測定したんだよ!それから、事実ではないと言われているけど、ピサの斜塔から重さの異なる球を落として、両方が同時に地面に落ちることを証明したという話が有名だよね!当時は、重いものほど速く落ちると考えられていたから、この実験結果は世間を驚かせたんだ!

1608年、オランダで望遠鏡(筒眼鏡)が発明されました。1609年、ガリレオは望遠鏡の倍率を上げるなどの改良を加えました。そして、その望遠鏡を使って天体観測を行いました。その結果、新たな発見がありました。すなわち、月の表面は平らではなく凹凸があること、木星には4つの衛星があること、金星には、太陽の光を反射して起きる満ち欠けと見かけの大きさの変化があることを発見しました。当時、月は完全な球体であるため、表面は滑らかで平らである(古代ギリシアの哲学者アリストテレスの考え)と信じられていました。
ガリレオは、月には地球と同様に山や谷があることを発見したため、アリストテレスの考えを覆すことになりました。そして、天体(衛星)が地球以外の惑星(木星)の周りを回っていることを発見したため、地球を中心として全ての天体がその周りを回っているという天動説では説明できない事実が明らかになりました。その結果、ガリレオは、地球や木星などの惑星は、太陽の周りを別の軌道を描いて回っていると考えた方が、理にかなっていることに気が付きました。つまり、ガリレオはコペルニクスの太陽中心説(地動説)に対する確信を強めました。

さらに、金星の満ち欠けや見かけの大きさの変化は、地球と金星の距離が変化していることを示していました。そして、それは、当時有力であった地球を中心として天体は円運動しているという天動説では説明しづらい現象でした。そのため、太陽中心説(地動説)を裏付ける発見ともなりました。1610年、ガリレオはこれらの発見を「星界の報告」という書物に記録して発表しました。これに対して、多くの天文学者たちはこの発見を支持しませんでした。しかし、天文学者ヨハネス・ケプラーはガリレオの功績を称えました。ケプラーは、1609年に惑星が楕円軌道を描いて太陽の周りを回っていることを発表していました。
1613年、ガリレオは「太陽黒点論」という書物を発表しました。そこには太陽を観察した結果を記録していました。すなわち、太陽の表面には黒点があること、黒点が一定の周期で回っていることを説明しました。そして、それは、太陽が球体で自転していることを示す証拠であると説いていました。一方、天動説では、地球は、宇宙の中心に不動の状態で存在していると考えられていました。しかし、太陽が自転しているならば、地球も自転していると考えるのが自然でした。すなわち、太陽の黒点が回転していることを発見したことは、地動説にとって有利な証拠となりました。
ガリレオは、自ら改良した望遠鏡を使いながら、天体観測から得られた知識や情報を資料としてまとめるとともに、深い洞察や解釈を加えることによって地動説の正当性を唱えました。1615年、ガリレオは、コペルニクスの地動説を支持する行為を行ったとして、異端の疑いでローマ教皇庁の検邪聖省(ローマの異端審問所)に告発されました。ちなみに、ガリレオは敬虔なローマ・カトリック教徒で、2人の娘を幼いうちに修道院に入れていました。1616年、ガリレオは、宗教裁判の判決によって地動説を支持することを禁止されました。
すなわち、ローマ教皇の教令によって、太陽中心説(地動説)を支持したり、教えたりするなどの行為を禁止されました。しかし、1632年、ガリレオは、その集大成として「天文対話(正式には、プトレマイオスとコペルニクスとの二大世界体系についての対話)」という書物を発表しました。本書は、プトレマイオスの天動説とコペルニクスの地動説を支持する者の対話形式の内容になっていました。すなわち、天動説側に立つ者、地動説側に立つ者、中立的な第3者が議論を交わしながら、地動説が優位にあることを説いていました。
本書での議論は4日間に渡って行われる構成になっていました。1日目は物体の運動などについて、2日目は天体観測による知見などについて、3日目は恒星の年周視差問題や大きさに関する錯覚などについて、4日目は潮汐の現象などについて説いていました。その中では、地球が自転しているなら、塔の上から落とした石は、真下ではなく地面が移動した分だけ後方に落ちることになるという説明に対して、慣性の法則にあたる考え方で反論していました。すなわち、速く走る船のマストの頂上から石を落としたとき、船の速さに関係なく石はマストの真下に落ちるという例示を述べて、地球が自転していることを主張しました。

また、潮の満ち引きが地動説を支持する証拠になることも説いていました。すなわち、地球が太陽の周りを公転する動きと自転する動きによって潮汐が起こることを説明しました。この説明は誤りですが、地動説を支持するための着想としては重要なものでした。ちなみに、潮汐は、主として月が地球に及ぼす引力、そして地球が月と地球の共通重心の周りを回転することで生じる遠心力、この2つの力を合わせた「起潮力」によって起きている現象です。ガリレオは、「天文対話」を発表したため、ローマ教皇庁に召喚されました。
そして、1633年、本書は、1616年の教令に違反しているなどの罪によって、ローマ教皇庁の宗教裁判で異端と判断されました。そして、ガリレオは終身刑を言い渡されました。後に減刑されましたが、本書は禁書として出版を禁止されました。ガリレオは、判決が下されたとき、地動説を放棄する旨の異端誓絶文を読み上げさせられましたが、最後に「それでも、地球は回っている」と呟いたという有名な話があります。しかし、弟子たちが付け加えた作り話であると言われています。1637年、ガリレオは両目の視力を失いました。1642年、ガリレオは77歳で亡くなりました。









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