【ナポレオン(前編)】皇帝就任までをわかりやすく解説!

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ナポレオン・ボナパルト

ナポレオンの生い立ち

1769年、父シャルル・ボナパルトと母マリア・レティツィア・ラモリーノの4番目の子供として、ナポレオン・ボナパルトはコルシカ島で生まれました。幼いときは、戦争ごっこが好きで、喧嘩も度々していたそうです。

1776年、神父が子供たちの家庭教師となりました。神父が、本を読み聞かせながら、言葉などを教えるうちに、幼いナポレオンは読書が好きになりました。そして、読書好きが、ナポレオンにとってその後の人間形成に大きな影響を与えました。

1779年、ナポレオンが9歳のとき、家族と共にコルシカ島を離れて、将来の陸軍士官候補生を育てるブリエンヌ陸軍幼年学校に入学しました。学生時代には、ナポレオンは、コルシカ島出身の田舎者で、コルシカ訛のフランス語を話していたため、それをからかわれて、いじめにもあったそうです。

一方、ナポレオンは、読書や勉学に熱心に努め、成績は優秀でした。1784年、ナポレオンが15歳のとき、パリの陸軍士官学校の砲兵科に入学しました。そして、翌年の1785年には砲兵少尉として任官しました。

ナポレオン・ボナパルト

通常、陸軍士官学校の課程を修了するのには数年を必要とします。しかし、ナポレオンは11か月で修了して、少尉に任官しました。それは、この学校の歴史においても最短記録だったそうです。

一方、ナポレオンは、この学校を卒業するとき、成績が下位でした。しかし、実際の戦場では、ナポレオンは、天才的な戦術家として、その能力を発揮しました。そのため、学校の成績と実社会での能力が一致しないことを示した典型的な例のように言われることもあります。

しかし、ナポレオンは、成績の上位を狙うよりも、11か月以内に全ての課程を修了することを優先させたかもしれません。すなわち、陸軍士官学校では、ナポレオンは、短期間で卒業することを優先させたため、成績を上げることにはこだわらなかったという合理的な決断をしたかもしれません。

フランス革命とナポレオン

1789年、パリの民衆が蜂起してバスティーユ牢獄を襲撃するという暴動が起こりました。これをきっかけとして、農民暴動が全国に広がりました。そして、第三身分を代表する国民議会は、封建的特権の廃止を決議し、人権宣言を行いました。すなわち、フランス革命が勃発しました。

フランス革命

1793年に至り、フランス革命の指導者として、急進的な共和派であったロベスピエールが頭角を現しました。ロベスピエールは、国王と王妃(ルイ16世とマリー・アントワネット)の処刑を先導するとともに、革命の政策を徹底的に行い、反対派を次々に粛清しました。そのため、それは恐怖政治と言われました。

一方、南フランスの港湾都市トゥーロンでは、イギリス艦隊などの支援を得た王党派が反乱を起こしました。フランス政府軍は、これを鎮圧するため、軍隊を派遣して、トゥーロン攻囲戦を行いました。しかし、フランス革命によって、多くの士官が海外に逃れたため、指揮官が不足していました。

そのような中、オーギュスタン(ロベスピエールの弟)は、ナポレオンの名を聞き、トゥーロン攻囲戦の砲兵隊長に任命しました。ナポレオンは、この戦いで戦功をあげ、24歳で准将にまで昇進しました。

しかし、1794年、独裁政治を行っていたロベスピエールが、穏健派のクーデタによって逮捕・処刑されました。そのため、将軍であったナポレオンも投獄されて、軍務を解かれました。そして、政府は、5人の総裁による集団指導体制がとられました。

フランス革命

1795年、パリで、王党派によるバンデミエールの反乱という暴動が発生しました。国民公会は、総裁の一人であるバラスを国内軍総司令官に任命しました。バラスは、ナポレオンを抜擢して、鎮圧を命じました。

ナポレオンは、速やかに暴動を鎮圧することに成功して、国内軍総司令官に任命されました。そして、1796年、ナポレオンはイタリア遠征軍司令官に任命されました。イタリア遠征は、フランスの革命政府を打倒するため、オーストリアやイギリスなどによって結成された第1回対仏大同盟に対抗することが目的でした。

1796年、ナポレオンは、バラスの愛人であったジョゼフィーヌ

の魅力に惹かれ、プロポーズして結婚したんだ!その時、

ナポレオンは26歳、ジョゼフィーヌは32歳で前の夫

との間に2人の子供がいたんだ!その後、ナポレオンは、

この妻の浮気に悩まされることになるんだよ!

当時、イタリア北部には、サルデーニャ王国とロンバルド=ヴェネト王国(オーストリア帝国の構成国)がありました。ナポレオンは、サルデーニャ王国に進軍して、オーストリア軍を撃破しました。さらに、ロンバルド=ヴェネト王国にも進軍して、オーストリア軍から解放しました。

1797年、ナポレオンは、オーストリアとカンポ=フォルミオの和約を締結して、戦闘を終結させました。その結果、第1回対仏大同盟は瓦解しました。そして、イタリア北部の多くの地域などがフランスの支配下に置かれました。

1798年、イタリア遠征から凱旋したナポレオンは、艦隊でエジプト遠征に出発しました。その目的は、イギリスとインド(イギリスの植民地)との交易の経由地となっていたエジプトを奪い、交易を遮断することによって、イギリスに打撃を与えることでした。

エジプト遠征

ナポレオンは、エジプトのアレクサンドリアに上陸して、ナイル川の沿岸でオスマン帝国の支配下にあったエジプトの軍隊を破りました。しかし、アブキール湾(ナイル川河口にある湾)の戦いで、ナポレオンのフランス艦隊は、ネルソン提督が率いるイギリス艦隊に敗れました。

すなわち、アブキール湾に停泊していたフランス艦隊は、イギリス艦隊に襲撃されて、ほぼ全滅してしまいました。これにより、地中海の制海権はイギリスが握ることになりました。

ナポレオンのエジプト遠征には、考古学者などの多くの学者が同行していたんだ!

そして、この時に、有名なロゼッタ・ストーンが発見されたんだよ!

エジプト遠征

1798年末には、イギリス、ロシア、オーストリア、オスマン帝国などによって第2回対仏大同盟が結成されました。1799年、ナポレオン軍は、オスマン帝国軍を撃退するため、シリアに進軍しましたが、攻略に失敗して撤退しました。

そして、ナポレオン軍はエジプトで孤立しました。一方、フランス軍が占領した北イタリアは、オーストリア軍に奪還され、フランス本国の国境も、イギリス軍などによって脅かされました。そのため、総裁政府は、動揺して国民の支持を失いました。

そのような中、ナポレオンは、エジプトを脱出して、フランスに帰還しました。そして、ナポレオンらは、クーデタによって総裁政府を倒して、3人の統領による統領政府を樹立しました。

ナポレオンは、第1統領に就任して、事実上の独裁官になりました。これは「ブリュメール18日のクーデタ」と呼ばれています。このように、ナポレオンの独裁体制が確立したため、フランス革命は終結しました。

ナポレオンの独裁

1800年、ナポレオンは、北イタリアに再度遠征して、オーストリア軍に辛くも勝利しました。1801年、ナポレオンは、オーストリアとリュネヴィルの和約を締結しました。その結果、ライン川左岸の地を獲得しました。

北イタリアでの戦い

1802年、ナポレオンは、イギリスとアミアンの和約を締結して、互いの占領地を返還しました。これにより、第2回対仏大同盟は解消しました。一方、国内政治では、1800年、ナポレオンは、通貨の統一と財政の確立のため、フランス銀行を創設しました。

1801年には、ナポレオンは、ローマ教皇と和解して、フランス革命によって禁止されていたカトリックの信仰を復活させました。これにより、多くの信者から支持を得ました。

そして、1804年には、ナポレオン法典が制定され、私有財産の不可侵や契約の自由などが保障されました。さらに、中等と高等の教育機関を再整備しました。これらの対外及び対内政策によって、ナポレオンは幅広い国民の支持を得ました。

ノートルダム大聖堂での戴冠式

このような中、ナポレオンは、1802年に終身統領に就任しました。1804年5月には、ナポレオンは皇帝の位に就き、国民投票が行われました。ナポレオンの皇帝就任は圧倒的多数で承認されました。同年12月、ナポレオン1世はノートルダム大聖堂で戴冠式を行いました。





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