【ナポレオン(後編)】フランスの皇帝についてわかりやすく解説!

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ナポレオンのイタリア遠征

皇帝ナポレオン(神聖ローマ帝国の滅亡まで)

1804年12月、ナポレオンは皇帝の位に就き、妻のジョゼフィーヌは皇后になりました。そして、フランス帝国が誕生しました。これに対して、1805年、第3回対仏大同盟が結成されました。

皇帝ナポレオンと皇后ジョゼフィーヌ

すなわち、イギリスなどのヨーロッパの諸国は、ナポレオン皇帝の下、フランス帝国がその勢力を拡大することを警戒したため、再び、対仏軍事同盟を結成しました。これに対してナポレオン1世は、イギリスに侵攻するため、フランス・スペイン連合艦隊をドーバー海峡へ派遣しようとしました。

しかし、ネルソン提督が率いるイギリス艦隊は、スペインのトラファルガー岬沖で、フランス艦隊を捕捉して撃破しました。これにより、ナポレオン1世のイギリス上陸は阻まれました。

一方、ナポレオン1世は、アウステルリッツ(チェコの南モラヴィア地方のブルノ近郊)で、オーストリアとロシアとの連合軍と戦い、これを撃破しました。

これは、ナポレオン1世に対するオーストリアのフランツ1世(神聖ローマ帝国のフランツ2世)とロシアのアレクサンドル1世という3人の皇帝による戦いであったため、三帝会戦と呼ばれています。

ナポレオン1世とフランツ1世

そして、プレスブルクで講和条約がオーストリアとの間で締結されました。その結果、オーストリアは北イタリアでの支配を失うなど大幅に譲歩しました。これにより、第3回対仏大同盟は解消しました。

1806年、ナポレオン1世は、ヨーロッパ大陸での勢力を拡大するため、ライン同盟を結成しました。すなわち、ナポレオンは、神聖ローマ帝国の支配下にあったドイツ諸国をライン同盟に組み入れました。

その結果、フランツ2世は神聖ローマ帝国の皇帝を退き、神聖ローマ帝国は滅亡しました。そして、フランツ2世は、フランツ1世としてオーストリア皇帝の位のみを継続しました。

皇帝ナポレオン(マリー・ルイーズとの結婚まで)

1806年、イギリス、ロシア、プロイセンなどの諸国は、ライン同盟に対抗して、第4回対仏大同盟を結成しました。プロイセンは、フランスに宣戦布告して、中部ドイツのイエナとアウエルシュテットで戦いました。

プロイセン軍との戦い

この戦いで、ナポレオン1世は、プロイセンを破り、首都ベルリンを占領しました。そして、ナポレオン1世は、イギリスに打撃を与えるため、大陸封鎖令を発しました。これにより、イギリスとの交易が全面的に禁止されました。

1807年、ナポレオン1世は、フリートラントの戦いでロシア軍を破りました。その結果、ナポレオン1世は、ロシアとプロイセンの両国との間で、講和のためのティルジット条約をそれぞれ締結しました。これらの条約によって、プロイセンは多くの領土を失い、ロシアは大陸封鎖令を遵守することを約束させられました。そして、第4回対仏大同盟は崩壊しました。

また、1807年~1808年にかけて、ナポレオン1世は、ポルトガルとスペインに侵攻しました。苦戦を強いられましたが、何とか支配下に置きました。一方、1809年、第5回対仏大同盟がイギリスとオーストリアの間で結成されました。

そして、オーストリアは、ナポレオン1世との戦争で失った領土を回復するため、戦いを挑みました。これに対して、ナポレオン1世は、ウィーンを占領してから、ウィーン近郊のワグラムで、カール大公が率いるオーストリア軍と戦い、勝利しました。

その結果、オーストリアは、フランスとの間でシェーンブルンの和約を締結して、さらに多くの領土を失いました。そして、 第5回対仏大同盟は解消しました。

また、ナポレオン1世は、皇帝の位が世襲されることを望んでいましたが、ジョゼフィーヌとの間には跡継ぎはできませんでした。1810年、それを理由にナポレオン1世は、ジョゼフィーヌと離婚しました。

ナポレオンとジョゼフィーヌ

ジョゼフィーヌは、ナポレオンが戦争で留守にしていたことをいいことに、

浮気を楽しんでいたんだ!ナポレオンがエジプト遠征中には、

浮気がばれて、ナポレオンはジョゼフィーヌに離婚の手紙を出したんだよ!

でも、手紙を乗せた船がイギリスに拿捕されたため、

イギリスの新聞に手紙の中味が載ってしまったんだ!

ナポレオンはこれで大恥をかいたらしいよ!この時は、

ジョゼフィーヌは離婚を免れたけど、この浮気癖が離婚の本当の理由かもね!

そして、ナポレオン1世は、オーストリア皇帝フランツ1世の娘マリー・ルイーズと結婚しました。これは、オーストリアが、フランスとの戦いにおいて敗北を繰り返して、小国に陥落したことから、ナポレオン1世を懐柔する目的で行った政略結婚でした。

この時、ナポレオン1世のフランス帝国は、その勢力を西ヨーロッパ大陸のほぼ全域と東ヨーロッパ大陸の一部にまで拡大しました。

皇帝ナポレオン(皇帝退位と追放まで)

ロシアのアレクサンドル1世は、1807年にフランスとの間で締結したティルジット条約で、ナポレオン1世が発した大陸封鎖令を遵守することを約束しました。しかし、実際には、密貿易が横行していました。

そして、アレクサンドル1世は大陸封鎖令に従わないことを表明しました。そのため、1812年、ナポレオン1世は、ロシアを討伐するため、ロシアへの遠征を開始しました。

ナポレオン1世は、50万以上の兵力でモスクワに向けて進軍しました。一方、ロシア軍は、本格的な戦闘を避けながら、退却を続けました。

ロシア遠征

やがて、モスクワの西100キロメートルくらいに位置するボロディノで、フランス軍はロシア軍と激突しました。両軍とも決定的な勝利を得られないまま、ロシア軍は撤退しました。

そして、ナポレオン1世が率いるフランス軍はモスクワを占領しました。これに対して、ロシア軍は、モスクワ市街を焼き払うという焦土作戦を実行しました。そのため、フランス軍は、寝泊まりする場所や食料などを十分に確保することができず、時の経過とともに消耗していきました。

ロシア遠征

ついに、ナポレオン1世はフランス軍の撤退を決断しました。しかし、そこに、冬将軍と呼ばれる厳しい寒気が到来しました。これにより、フランス軍は、ロシア軍の追撃やゲリラ攻撃に悩まされるだけでなく、寒さと飢えにも苦しめられました。ナポレオン1世は、多くの兵を失い、ロシア遠征は失敗に終わりました。

1813年、それを機会に、イギリス、オーストリア、プロイセンなどの諸国は、第6回対仏大同盟を結成して、ナポレオン1世によるヨーロッパ大陸支配を覆すための戦いを開始しました。

そして、この解放戦争が各地で行われる中、ライプツィヒ(ドイツ東部のザクセン州北西部)で「諸国民の戦い」と呼ばれる最大の戦いが行われました。すなわち、ナポレオン1世が率いるフランス軍とライン同盟軍は、プロイセン、ロシア、オーストリア、スウェーデンによる連合軍との戦闘に突入しました。

ライプツィヒの戦い

ナポレオン1世は、不利な形成となったため、連合軍側に休戦を申し入れましたが、拒否されました。また、ライン同盟軍の中のザクセン軍が裏切ったため、ナポレオン1世は、劣勢の状態を巻き返すことはできず、敗北しました。

1814年、連合軍は、フランスに進軍してパリを占領しました。そして、ナポレオン1世は退位しました。ナポレオンは、流刑に処されて、エルバ島に追放されました。一方、フランスでは、ルイ18世が即位して、ブルボン朝が復活しました。その結果、第6回対仏大同盟は終結しました。

ナポレオンのパリ帰還

ロシア、オーストリア、プロイセン、イギリスなどのヨーロッパ諸国は、ナポレオン戦争後におけるヨーロッパの国際秩序を回復するため、ウィーンで会議を開きました。しかし、1815年、ナポレオンは、エルバ島を脱出してパリに帰還しました。そして、皇帝に復帰しました。

ワーテルローの戦い

これに対して、ウィーン会議に参加していたヨーロッパ諸国は、第7回対仏大同盟を結成しました。ナポレオン1世は、ワーテルロー(ベルギーのブリュッセル郊外)でイギリス、オランダ、プロイセンによる連合軍と戦いましたが、イギリスのウェリントン将軍などが指揮する連合軍に敗北しました。

セント・ヘレナ島でのナポレオン

ナポレオン1世は、再び退位して、今度はセント・ヘレナ島(南大西洋の火山島)に追放されました。皇帝ナポレオン1世の復帰は「百日天下」に終わりました。そして、1821年、ヨーロッパ大陸に大帝国を築いたナポレオン・ボナパルトは51歳で生涯を閉じました。





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